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次回作への構想 〜新しい労働論へのヨチヨチ歩き〜

『労働なき世界』というお祭り騒ぎな宗教書を出版してから気づいた。

僕たちにとって「労働とは何か?」が、いまだに十分に問われていないと。

なぜ人は労働を嫌悪するのか? なぜ人は労働を嫌悪せずにいることができるのか? 世界を成り立たせる労働とはなにか? 世界を成り立たせない労働とはなにか?

嫌悪すべき労働が意味するのが農作業や大工仕事、トイレ掃除、資料作りそのものであるとみなされ、それ故に誰しもが人は怠惰であるという利己的遺伝子論風の結論に飛びついてしまうのは、「嫌悪すべき労働」と言うイメージが作業そのもののあらゆる側面を覆い尽くしているからであると考えられる(そして、人間があらゆる作業を嫌悪するなら、人はニンジンをぶら下げなければならないという結論に到達するのを避けられない)。

ここで労働を語り直すことで、突破口が開くはずだ。

アレントはactionをacionたらしめるのは言論による意味づけであると言いながら、その範囲をあくまで政治的議論といった極めて矮小な行為に限定した。しかし、言論による意味づけさえあればアレントが蔑んだ農業のようなlaborを含めあらゆる行為はactionたらしめることができるのではないか?と僕は考えた。

そして、最近気づいた。もしかしてハイデガーの現存在とか投企とかって、actionの成立要件として使えるのではないだろうか?

昨晩、息子が寝床で2回ゲロを吐き、連鎖的に娘が起こされ、夫婦共々てんやわんやして、妻が寝床を失いほぼ寝ていないという状況で朝を迎えた。息子を幼稚園に送った後、妻と僕は昨晩の出来事をまるで楽しい思い出であるかのように、あれこれと語り合った。なんやかんや語ればそれで満足できた。

この語りこそが、労働をactionたらしめる言論であり、現存在による意味づけなのだろうと僕は思った。

そして、おそらく人間はあらゆる行為をactionに変える能力を持っている。逆に言えばどんな行為であっても意味がなければlaborに転落する。この人間の弾力性が、ブルシット・ジョブを満喫し、生活保護を叩く意識高い系を産むのであろうと考えられる。

アレントがやたらとこだわった生命の必然性という観点は、あまり重要ではないのではないだろうか? なぜなら、あらゆる行為は遠回しに生命の必要性に貢献するが、ほとんどの行為は生命にとって不可欠ではない。食糧を必ず得なければならない状況は、実はそこまで多くない。食のほとんどは祝祭的な楽しみなのではないだろうか?

そう考えたときに「効率」という王者が都落ちすることになる。生命は常に過剰であって、最短距離で生命維持しなければならないシチュエーションはそこまで多くない。そうではない状況をいかに過ごすかの方が、人間にとって重要なのだろう(シンギュラリティ論やAIに仕事を奪われる論は、2つの意味で間違っている。まず一点は、AIが大工や農家、カフェ店員、配管工、トラックドライバーの仕事を代替することは現時点では実現可能性が見込めないこと。もう1点はそもそもそれらを効率化することを僕たちが望んでいるとは限らないことだ。つまり、釣り人をスシローに連れて行くような事態になりかねない)。

逆に効率主義はストレス要因に直結する。ストレスの大半は時間の制約から生じるが、ほとんどの時間の制約は社会的に生み出されたものであり、生命の必然性に基づくものではない(と思っているが、これは仮説であり、根拠は僕の実体験だ)。

渡辺京二『逝きし世の面影』では、歌いながらダラダラと働く江戸時代の人々が描写されていた。現存在としての人間にとって、歌い、その行為に意味づけすることは、効率よりも優先されるべき事項なのだ。『もののけ姫』の一幕でタタラ場で楽しそうに歌いながら働く女性たちの姿を僕たちはよく知っているわけだが、彼女たちは製鉄をactionに昇華していたのだ(効率そのものをタイムアタック的なactionとして楽しむケースは例外である)。

もちろんここまでの議論は、やりがい搾取の倫理に接続される危険性を孕んでいる。「ありがとうの言葉が給料」と言われても、僕たちはその気になればやっていけたりするのだ。ブラック経営者の命令と支配と搾取を、自発的な意味づけに変換し、actionとして過労死ラインを越えて平然と働き続けることはできなくもない。

では、ここで「どんな仕事でもやりがいを持って取り組むことはできるのだから、そうしろ」というブラック精神論を避けるためにはどうすればいいのだろうか?

そもそも、賃労働とトップダウンマネジメントは、行為をactionたらしめるにあたって障害として機能することを指摘するだけで十分だろう。資本主義下の賃労働とは、生命にとって必要なリソースを囲い込みによって制限され、人工的に作り上げられた欠乏状態から脱することを強制されるという意味で、紛れもなくlaborである(アレントは生命の必要性に駆り立てられた活動をlaborとしたが、僕は生命の必要性のほか他者からの命令や評価によって必然性を押し付けられた活動をlaborとしたい)。トップダウンの命令系統も、上司が生殺与奪を握っているが故にそれはlabor的要素を強め、さらに言えばテイラー主義的に分断された労働は、意味づけを上司の手に奪われてしまっているという意味で、actionであることが難しくなる。もちろん、長くそこで働けば上司や社長の命令を神の言葉であると解釈し、シーシュポスのようにがむしゃらに働くことはできるが、そもそもそこに行くまでに超人的なメンタルが求められる。これはそもそも縛りプレー的なものである。

一方で、人はそもそも現存在として意味づけを行うという根源的な衝動を持っているが故に、賃労働やマネジメントによって意味づけの機会を奪われない限り、自ずとactionに取り組むと考えられる。

問題は、そんな状況で取り組むactionなど、下手くそなパロディ小説を小説家になろうに投稿したり、延々とApexをプレイしたりするような、無益なものになるであろうという予測にどのように反論するかである。

いくつかバリエーションは考えられる。まず現在の賃労働はフロンティアを失った今、互いに搾取し合う営業活動というブルシット・ジョブで構成されていることに疑いの余地がないとする(データ資本主義、監視資本主義も、営業活動におけるババ抜き合戦だと解釈できる)。そして、actionに取り組むことは人間の幸福にとって欠かせないとするならば、まず賃労働を通じてactionに到達することが難しいことと、何はともあれ労働しないことは世界にとってプラスに働くことを指摘すれば、日がな一日Apexをしている人が一定数いた方がマシであるという結論に辿り着く。

一方で、賃労働的でありactionに到達する前の精神的に未熟な農家や大工が仕事を辞めてしまい、彼らがつまらないパロディ小説の執筆に邁進してしまうリスクもある。だが、そもそも農家や大工の仕事であっても、ブルシットな営業活動によって廃棄物を作らされているという側面が大きい。ならば、一定数が仕事を辞めても支障はないはずである。また、正真正銘のブルシット・ジョブから解放された人々がキッザニア感覚で大工仕事を始めて夢中になっていくことによる労働力のカバーにも期待できる。

もちろんactionであり続けるには鬼教官は排除される。キッザニアレベルからプロレベルにステップアップするのに鬼教官が不可欠かどうかは議論が分かれるが、鬼教官抜きでも僕たちはステップアップするだろうということは、なんとなく時代精神が理解してきたところではなかろうか(これも証拠を探そうと思うと、心理学的な統計をあたってくるのがいいのかもしれないが)。

要するにここは「まぁなんとかなるやろ」でいいのではないだろうか?

そもそも我々の社会において、少し精神科で嘘をつけば生活保護を取ることは誰にだって可能なのだ。生活保護が存在しない状況で、生活保護を導入することは、「みんな働かなくなる!」というリスクが十分に考えられた。その状況下で大工が大工であり続けている現状は、「なんとかなっている」のである。

実際、生活保護の導入はどのようなプロセスであり、どのような危機感を持って受け止められたのだろうか? 聞いてみた。


Q. 世界ではじめて生活保護が導入されたのはいつ、どこで?

また、導入に反対する意見と賛成する意見はどちらが多く、それぞれの意見はどのような根拠だった?

世界で最初に生活保護が導入されたのは、19世紀後半のドイツ帝国でした。1883年に導入された疾病保険制度の一部として、貧困層が病気になった場合に必要な医療費を支援するために導入されました。

当初は導入に反対する意見が強かったようです。反対派は、生活保護が怠惰な者たちを支援することになると主張しました。また、支援が裕福な階層から徴税される形態をとるため、不公平だという意見もありました。

一方で、賛成派は社会の弱者を支援し、病気の治療に必要な医療費を負担することで、経済的な安定を促進して社会全体の発展につながると主張しました。また、病気になって働けなくなった貧困層が社会的に排除されることがなくなり、社会的な包摂を促進することも期待されました。

現在では、多くの国が生活保護制度を導入しており、貧困層の救済や社会的な包摂を促進する役割を果たしています。

ChatGPT

とのこと。やはり「働かなくなる!」的な意見はあったようだ。

ただし、19世紀のドイツでうつ病患者に生活保護が支給されたとは考えにくい。となると、わざわざ結核にかかろうとする人はいないという意味で、「はたらかなくなる!‥ってこともないか」という結論に至るのは理解できる。

当時と比べれば生活保護の取得のしやすさはなし崩し的に緩和されているはずである。少し検索すれば生活保護取得の裏技のような情報には誰でもアクセスできる。「働かなくなる!」の理論は生活保護導入当初はまだ守られていたものの、気づけばその理論は崩壊しているに等しい。

つまり、生活を保障しても人は有益な仕事をするであろうと想定して問題ないと思われる。むろん、生活保護は批判の対象であるが故に、取得をセーブできているという反論もある。だが、賃労働とマネジメントによる強制力がなくなった世界において、似たような倫理観が全く広まらないとは考えづらい。それなしでも生活できると分かりきっているのに、林業に勤しむ人を尊敬せずにいることは難しい。逆に今は、社会に必要な林業も、金が儲からないと言う意味で、あたかも社会に必要ではないかのように扱われたり、補助金づけのフリーライダーであるかのような扱いを受けたりしている。それでもなお林業がまだ崩壊していないことは(いや、ほぼ崩壊しているのか?)、人が持つ使命感の証左と言えるのではないだろうか?

もちろん僕は賃労働とマネジメントの強制力がなくなった社会=ベーシック・インカムの導入された社会だと想定している。資本主義的な囲い込みによって人工的に作られた欠乏状態から解放されれば、必要性に奉仕するというlaborが社会から原理的に一掃され、人はactionに取り組むことになる。それが自己満足である可能性もあるが、そうでない可能性もある。いずれにせよ、laborに取り組むよりもactionに取り組む方が人は幸せであろう。

ではなぜ、laborよりもactionの方が幸せなのか? そもそもこの意見についても反論の余地はある。「人は誰かに命令されなきゃ、何をしていいのか分からず狼狽えるだけであり、結局ヒトラーのような人物に利用されるだけだから、賃労働させときゃええねん」と。

要するに人はなぜ現存在であり得るのか? ほんとうに現存在であろうとするのか?という問いである。おそらくここは探索行動こそが生命の原動力(=ベルクソンの言うエラン・ヴァイタル?)であるとした『感覚が生物を進化させた』の理論や、ホフマイヤーの『生命記号論』が参考になると思われる。

僕は現存在というものが人間に限定される必要はないと思っている。他の哺乳類も個体を認識するし、おそらく自己認識もある。ならば自己と世界に意味を与えていないとどうして言えるだろうか?だから生命そのものが意味という記号のやりとりであると解釈したホフマイヤーの本を読みたい。そこから意味を生み出して探索行動を行うことが生命にとって本質的な存在理由であることを主張できたらいいと思っている。

(「自由からの逃走」的な言説に反論する方法は、他にもいろいろあるのだけれど、まぁここでは端折る)

問題があるとすれば、ホフマイヤーの本は絶版で手に入らないことだ(メルカリでクソ高いのである)。

もっというと僕はここまでハイデガーについて偉そうに語ってきたが『存在と時間』は上巻の途中までしか読んでないのである。

さらに、途中で取り上げた渡辺京二『逝きし世の面影』も、立ち読みしかしたことがないのである。それにこの本は、海外の観察者から見た江戸時代の人々というオリエンタリズムと渡辺のノスタルジーにふんだんにまみれた本であり、証拠としては弱いかもしれない。

江戸時代の農民の日記なんかがあればいい材料になると思ったのだが、そんなものはないらしい。

Q.江戸時代以前の農民本人が書いた日記、またはそれに類する文献は残っているか?

江戸時代以前の農民が直接書いた日記や手紙、またはそれに類する文献はほとんど残っていません。当時の大多数の農民は、読み書きができず、また文化的・社会的地位が低かったこともあり、自分たちの生活や感情を書き残すことはあまりなかったとされています。

しかし、江戸時代には一部の豪農・地侍たちが、自分たちや周囲の農村社会の事情を書き残したり、日誌を記録することがありました。また、それらの文献を編集し、当時の農民の生活や習慣、心情を知ることができるようになっています。

ChatGPT

なんというか、僕が知りたいのは江戸時代の生活水準とか、労働時間ではない。それらの情報は、僕たちの作業蔑視の価値観で測れば「あー、労働短いねー」とか「長いねー」という感想で終わってしまう。僕が知りたいのは、江戸時代の人々が畑仕事をすることをどう捉えていたのか?である。さっさと終わらせたい苦行だったのか。歯磨きのような日常だったのか。エンタメだったのか。

まぁその辺りの情報が出てくるかはわからないが、とりあえずこの辺りを当たってみようと思う。


また、ドイツの生活保護導入時の状況の詳細も気になるところである。

はい、以下の参考文献があります。

- 伊藤春樹「ドイツ社会政策の基礎的研究」(日本評論社、1998年)
- 池上彰「政治を知らない人のための新・世界史入門」(講談社、2015年)
- 吕东林「国际社会保障史」(社会科学文献出版社、2008年)

ChatGPT

(売ってるのか?これ。ていうか中国語ww)


あと、BI論の素材としては、オイルマネーで事実上のBI状態となっているクウェートの状況も調べてみたいところである。

この辺りをリサーチしきったら(いつになることやら)もう一冊本が書けそうだ。21世紀の労働論として。

もうすぐ育休が終わり労働を始めるというのに、労働をやめるべき理屈をこねくり回しているのである。自分でも笑けてくるくらい矛盾しているが、まぁそんな人生だって楽しい余暇じゃないか。

まだヨチヨチ歩きのレベルだが、地平線には僕たちの社会における労働観の更新が見える。

さぁ、今年中には完成できるかしら。どうかしら。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!