資本主義批判はいつからファッションアイテムになったのか?
2月に日本語版が発売される『Citizen Sleeper(シチズン・スリーパー)』というゲームは、僕のような左翼臭い陰キャの性感帯をくすぐらずにはいられない。
紹介記事を一部引用しよう。
いわゆる資本主義に対して「ひとこと言ったる」系のゲーム作品である。あからさまなメタファーを通じて切れ味鋭い社会風刺を展開する様に、左翼くさい陰キャは鼻息を荒げながら夢中になる。そして、哲学的なオカズを消費することによる自己優越の意識と、社会に対する不満とを織り交ぜ、ティッシュペーパーにぶちまける。
僕はこの手の作品が資本主義が敷いたレールの上に展開され、資本主義のルール上で一発当てようとする矛盾を指摘したいわけではない。この手のゲームの「資本主義批判」という属性が、「学園」や「デスゲーム」「異世界転生」といった単なるコスチュームの1つと化していて、誰も真面目に資本主義を打ち倒そうとしていないことを指摘しているのである。
革命に奉仕する新聞は無数にあるが、革命に奉仕する人間は一人もいないと、かつてHDソローは言った。今となっては、革命に奉仕するゲームや小説、漫画、哲学がそこらじゅうに溢れかえっている。だが、革命に奉仕する人間はいまだに現れていない。
どうやら僕たちの多くは資本主義が批判すべき対象であることに同意している。完全に撤廃するか、修正するかについては意見が分かれるものの、このままでいいはずがないことには誰もが同意している。その証拠に、資本主義が行き過ぎた社会を誰もがディストピアとして描いているのだから。
しかし僕たちはこの先の未来に待っているかもしれないディストピアを、警告として受け取るのではなく、ファンタジーとして消費する道を選んだ。
そしてこのファンタジーは、現代社会に漂う諦めをそのままに体現する。資本主義が行き過ぎたディストピア作品が、資本主義体制の打倒というエンディングを迎えた試しがないのだ。僕たちはファンタジーの世界ですら、資本主義を打ち倒す方法がわからないらしい。あるいは、そこに現実味を感じていない。「資本主義の終わりよりも、世界の終わりを思い浮かべる方が容易い」という資本主義リアリズムは、僕たちの想像力を丸ごと飲み込んでしまった。
そんなことを言いながら僕も、このゲームをプレイする気満々なのである。僕の股間は「惑星間資本主義」「サイバーパンク」という言葉を見るだけで膨れ上がるように調教されてきた。資本主義批判というジャンルが生まれたという意味では、資本主義社会が誕生して良かったのかもしれない。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!