「タダほど高いものはない」は自己成就的な予言
「タダほど高いものはない」と思っているから、相手に負い目を感じてしまう。そして、何か頼まれると断れなくなる。
「タダ? ラッキー」というフリーライド気分を満喫すれば、負い目を感じることはない。何か頼まれても平気で断ることができる。
「え? この前、●●あげたやん?」「いや、それとこれとは話が別だし、気にしないでいいって言ってたやん?」「・・・」
で、終了というわけだ。
実際のところ、過去の恩を笠に、何かを無理やりお願いされるような状況って、あんまりないと思ってる。僕自身も、誰かにそんなお願いの仕方をするようなことはほぼないし。
そもそも、人に何かをプレゼントする人は、恩を売ろうとしているのではなくて「プレゼントしたいから、プレゼントする」という動機がほとんどじゃないかと僕は感じている。ならば…
思いやりを受け取ることも、思いやり。(by 僕)
という名言からも明らかなように、プレゼントを受け取る側も、「受け取り、喜ぶ」というプレゼントを相手に返しているのだ。それでいいじゃないか(ヘンリー・D・ソローはそれが行き過ぎて、「隣人に家を建てるのを手伝わせてやった」みたいなことを言っていた笑)。
借りを返すのではなくて、無償のプレゼントの無限の応酬。どちらが得してて、どちらが損しているかなんて、いちいちカウントしない。たぶん、人間はもともとそんな感じにできている。
それでも、ネオリベが跋扈する世の中では、いちいち費用便益計算をしたがる人はいる。
以前、僕は友達に引越しを手伝ってもらったのだが、それを僕の父親に話したら、こう言われた。
「そんなんお前、業者に頼んだ方が早いし、それに友達に1万円くらい日給払わなあかんやろ…?」
当然だが、僕は友達に日給を払っていない。代わりに寿司とピザをご馳走しただけだ。友達とは付き合いが長すぎて、もう何を貸していて、何を借りているかなんて、何も覚えていない。そんなことはどうだっていいのだ。
人類学が明らかにするように、損得を計算するのは他人同士の証だ。隣人とは損得を計算しない。
みんなが隣人になれば、贈与経済のはじまりだ。それはもう経済と呼ぶ必要もないような、当たり前の暮らしが、当たり前に思いやりに満ちたものになる。
脱資本主義って、そういうことを言うんだろうなぁ。「資本主義じゃないと、やる気がなくなる」と紋切り型の資本主義マンセーを繰り返している人は、友達とバーベキューしにいく時を思い出してみてほしい。
頑張ろうが、頑張らまいが、肉を食う権利は同じなのに、みんな張り切って車を出したり、買い出しに行ったり、炭をおこしたりするだろう。やることがなければ、手持ち無沙汰で、自分も何か役に立ちたいと思わないだろうか?
資本主義をやめるっていうのは、そういうことなのだよ。結局、人間ってそういう風にできているんだよね。
ちなみに引っ越しの日、遅刻してやってきて、結局何も手伝わずに寿司とピザだけ食って、新居で夜中まで酒飲んで帰っていった奴がいた。
そういう奴もいる。楽しいからいいじゃないか。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!