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なんやかんや僕たちは労働価値説を信じて生きている【雑記】

日焼けした自動販売機と、塗り直された自動販売機を見比べたときに、僕たちは塗り直された自動販売機に価値を感じる。あるいは穴の空いた靴下を履いた人物と、穴を補修した綺麗な靴下を履いた人物なら、後者の方が価値ある人物だと感じる。筋が丁寧に取り除かれた鶏肉の方が、そうでない鶏肉よりも価値を感じる。なぜこのようなことが起きるのか、実を言うと明らかではない。

日焼けした自動販売機に価値がないと感じる理由は特にないし、靴下に穴が空いているからと言ってさほど実用的なデメリットがあるわけではない。鶏肉の筋は普通にうまい。

それなのになぜ、僕たちは上記のような価値判断をするのだろうか? よくよく価値の領域を観察してみると、世の中に存在する価値判断の多くは「手が込められていればいるほど価値がある」という原則が当てはまるような気がする。そして、手が込められているほど値段が高いとされ、値段が高いほどいいものだとされる。

価格は希少性で決まるという一般常識すらも、この法則で解釈することが可能になる。珍しいということは、入手に手間がかけられているということ。手間がかからずに手に入るなら、それは希少ではない。ナポレオン三世は当時貴重だったアルミの食器で客人をもてなした。彼にとってはありふれた銀の食器などでもてなすことは考えられなかった。現代のアルミの扱いをみたらナポレオン三世もぞっとするのではないだろうか。

生成AIも似たような末路をたどっている気がする。僕は「なんかAIっぽいな」と感じた瞬間に、そのイラストや文章にはほぼ魅力を感じなくなってきた。この感覚はきっと多くの人が同意してくれると思う。はじめは、生成AIを使いこなすスキルは貴重なものだった。いまや誰でも使えるようになり、「手抜き」の代表格となった。そして価値は失われていく。最終的に、(雰囲気だけ出ればいいようなブログのトップ画や、文字数さえ埋まっていればいい読書感想文みたいなものは例外として)AIじゃ出力できなさそうなイラストや文章をつくる人が求められる。結局、人力が必要とされるのだ。

「努力すれば価値が生じる」的な根性論は、日本式長時間労働の原因であるとして意識高い系の人から批判を受けがちではあるものの、なんやかんやいって僕たちは手間がかかっているものに価値を感じていて、あながち件の根性論は間違いでもない。労働価値説は、こういう意味で解釈すれば正しいのだと思う。

では僕たちは、なぜ手間がかかっているものに価値を感じるのだろうか? 言い換えれば、なぜ手間がかかっているものを好むのだろうか?

パスカルは次のように書いた。

身なりを飾ることは、それほどつまらぬことではない。つまり、自分ひとりのために大勢の人間が汗水をたらしているのだと見せつけられるからである。自分の髪かたちによって、召使や香水造りなどをかかえていることを見せつけ、その胸飾り、金銀の糸、飾り紐などによって……ところで、たくさんな人手を持っていることは、単に体裁とか、こけおどしではない。人手を多く持てば持つほど、その人には力があるのだ。身なりを飾るとは、自分の力を見せびらかすことである。

パスカル『パンセ』(教文館)

この文章は身なりに限った文章ではあるものの、普遍的な真理が含まれているような気がする。自分は他者を動員する力を持っているのだと周囲に見せつけたり、自分自身で実感したりすること。そこに人間のモチベーションがあるのではないだろうか。手間のかかっていない髪飾りや香水をつけたところでテンションがあがらないのは、それでは他者を動員する力がまったく証明されないからではないだろうか。

自分自身で味わうだけの高級フレンチのようなものも同様だろう。何十年と修行させ、世界中の食材を取り寄せさせ、手間暇をかけて作らせる能力を自分は持っているのだという、手ごたえを感じたいのではないか。

これは突き詰めれば権力欲である。それだけですべてを説明することはできないが、ある程度の行動原理は説明できそうだ。

僕は人間が抱く欲望は例外なく「自らの意志で、世界に意味のある変化を起こしたい」という根本的な衝動を持つと考えている(人間は常に行為を欲望し、なんの変化も起こさない行為は存在しないからである)。そして、人はトレーニングを積んだり、道具を使ったりすることで、変化を起こす能力を増大させたいと望む。結果、人はハサミや包丁、車、パソコン、コップといった道具類(メディアともいえる)の使い方をトレーニングして、さまざまな変化を起こすことを楽しむ。権力欲とは、人間を道具にしようとする欲望なわけだ。人に命令すれば人が行動する。その変化が快感になっていくのだろう。

高校時代の国語教師は、悪さをした生徒に対して「立て・・・座れ・・・立て・・・座れ・・・」という命令をひたすらに繰り返すというサディズム的指導を行うことで悪名高かった。生徒が立とうが座ろうが、国語教師には何のメリットもないように見えるが、そうではない。彼にとって権力を行使して、生徒を行為させること自体が喜びだったのだ。

とはいえ、権力欲はすべてではない。僕たちの社会で権力欲がこれほどまでに幅を利かせているのは、単に権力欲以外を追求することが許されていないからである・・・なんて話を書き始めると、また長くなりそうだし、脱線も甚だしいのでこれくらいにしておこう。

ともかく、労働価値説はあながち間違っていないということだけを言いたかった。以上。

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