謝罪って、なんなんだろうね?

僕は謝罪という行為に何の重みも感じていない。そもそも僕は生まれてこのかた「自分が悪い」と思ったこともないし、反省したこともない。

現在から見て過去の自分の行いに問題があるように見えても、それはあくまで結果論であって、問題があった瞬間にはそうするべき相応の理由があったわけだ。

だから、心の底から謝罪したことはない。でも、僕は易々と謝罪をする。まぁサービスだ。

当然のことながら、謝罪は誰かのご機嫌をとること以外には、何の役にも立たない。でも、謝罪がなければ満足できない人がいることもわかっている。だから謝罪をする。

正直、めんどくさい。

謝罪モードに入ることで潤滑なコミュニケーションが中断されるし、今後の対応策に向けられるはずだったエネルギーも、いかに言い訳しようかという思案に浪費される。

そして、単純にダルいし、やる気がなくなる。謝罪を暗に要求するような人には、まともに接しても無駄だという感覚を抱き、官僚的な責任逃れ仕事に終始しようという気分になる(「指示されなかったので僕の責任ではありません」)。この時点で、最も僕が能力を発揮するために必要な、自発性を伴う創意工夫は弱体化する(それでも結局、創意工夫をしてしまうんだよね、人間だもの)。

まぁ、謝罪を要求する人は、往々にして権威主義的なので、僕の創意工夫には期待していないそぶりを見せる。それでいて、実際のところは僕の創意工夫に依存していて(それがなければ大した成果は得られないのだから)、得られた成果を「自分のマネジメントのおかげだ」と略奪していく。

もちろん、略奪しなければ、権威主義的な人物の存在価値は正当化されないから、この略奪はある意味で予定調和的だ。ならば、謝罪を要求する姿勢も、必然的なのかもしれない。

なぜなら、謝罪を要求しなければ、僕は自分のミスを自分で分析して勝手に課題解決をしてしまい、権威主義的な人物の出る幕がなくなってしまうからだ。

謝罪を要求することで、実態としては課題解決を妨害している。しかし、その行為を逆に課題解決を促していると見せかけることでしか、権威主義的な人物の正当性は維持できない。謝罪が世界から消え失せないのは、こういう理由も大きく働いているような気がする。

謝罪も反省も存在しない民族がどこかにいたような気がする。どこかの人類学者が言っていた。いいなー、そういう世界。

謝罪なんて消えてしまえ。

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