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そこら中で証明されるアンチワーク哲学【アンチワーク哲学】

この前、不思議な飲み屋に入った。

扉を開けてすぐに視界に入ったテーブルでは、客がキャッキャっと小麦粉に塗れながら餃子の皮を作っている。カウンターでは、また別の客が餃子を包んでいる。客全員が協力しながら餃子をつくっているらしい。

席に案内されることもなく、好きなところに陣取る。そして、ビールを取り出してとりあえず乾杯した。ドリンクは冷蔵庫から勝手に取って飲むスタイルだ。

飲みながら僕は連れと雑談をしているのだが、なんだか居心地が悪くなってくる。ほかの客たちは餃子をつくっているのに、自分たちだけ手持無沙汰であるように感じたのだ。いてもたってもいられなくなり僕たちは「手伝わせてもらってもいいですか?」と声をかけ、餃子の皮づくりをやりはじめた。

客が料理をつくり、客がドリンクを注ぐ。料金は時間制。ついでに言えば、店の営業時間は店主の気分次第。店主の「働きたくない」という思想を突き詰めた結果、こういうお店の設計になったらしい。

よくよく考えれば不思議な話である。そんな店が成立してしまっているのだから。

飲食店とは、ドリンクを注いだり、料理をつくったりするサービスを提供し、その対価としてお金を払うシステムであるはずだ。その前提には、「人間はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくない(だから客として金を払って店員にやらせる)」という発想が存在している。

なら、「なぜ客である俺たちが餃子をつくらねばならないのだ?」といったクレームが噴出し、とっくに店が潰れていなければおかしいのである。

しかし、なぜかそうはなっていない。むしろ、客たちは楽しそうに餃子をつくり、「うまいうまい」と自分たちでつくった餃子を食べ、なんの不満もなくに料金を払って帰っていく。しかも一人や二人の変わり者だけがそうなるわけではなく、全員が満足げなのだ。むしろ、一般的な居酒屋で食事を楽しむときよりも、より大きな満足感を感じているように見える。

そうなってくるともう、この社会に存在している「客はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくない」という前提が間違っているのではないかと勘繰らずにはいられない。人間は、自分の意志で誰かに貢献し、役に立つことを欲しているのではないか、と。

これこそがまさしくアンチワーク哲学が提唱した概念である貢献欲が発揮されている場面である。

もちろん、店主の方はといえば、「働きたくない」と言っているし、客に多くの工程をゆだねている。彼は、もともと一般的な飲食店を運営していたらしい。その中で「働きたくない」という想いが芽生え、その想いに従って店舗を設計した結果、いまの状況に至ったらしい。とはいえ、彼もまったくなにもしないわけではない。餃子の仕上げ作業や準備工程の大半は依然として店主の役目である。しかしどうにも「あー、こんなことやりたくないのになぁ」などという感情を抱いているわけではなさそうだ。むしろ、店主の方も楽しそうに店を切り盛りしているのである。

なら、彼が嫌がっていたのは、否応にも時間通りに店を開けて、接客し、調理し、ドリンクを注がなければならないという強制だったのではないか? 決して、彼の言葉でいう働くことそのものが嫌だったわけではないのではないか?

人は食欲を持ち、食事を欲する。しかし、朝から晩まで強制的に食わせ続けられる生活が続くなら、食事が嫌いになるだろう。だからといって人間は本質的に食事を嫌う生き物であるだなんて考えはバカげている。それと同じである。彼は朝から晩まで強制的に客に貢献することが嫌なだけであり、人間は本質的に貢献を嫌う生き物であるだなんて考えもバカげている。

それを裏付けるように、客たちは自発的な貢献に喜びを感じている。ここで生じている事態は「人間は貢献欲を持つ」というアンチワーク哲学の主張を根拠づけているのだ。

このお店では、誰も労働していない。しかし、食事を提供するという価値は提供されている。その過程は、誰にとっても喜びに満ちたものである。言い換えれば、ここは簡易領域としての「労働なき世界」なのである。

僕がやりたいことは、この「労働なき世界」を社会全体にいきわたらせることである。それは決して不可能ではないと思っている。そのために必要なのがアンチワーク哲学なのだ。

「客はドリンクを注ぎたくないし、料理をつくりたくないわけではない」ことは、すでにほぼ裏付けられている。なら「人は道路工事をしたくないわけではないし、農作業をしたくないわけでもない。老人のオムツを替えたくないわけでもないし、冷蔵庫をつくりたくないわけでもない」と考えてもさほど突飛な発想ではないのではないか? この発想を拡大して適用していくだけで、世界中の労働を、自発的な貢献に置き換えることができるのではないか?

むしろ労働という形で強制することは、実は非効率なのではないか? 過労死するまで居酒屋チェーンで働く人々や、ワンオペのブラックバイトで消耗している人々は、依然として存在している。しかし、そうした貢献を強制せずともほかの人々で分け合えば、店員の苦しみが軽減されるだけではなく、客のほうにも満足感があるのだ。

ならば、労働による強制が、あるいはお金による強制が、人々を無意味に苦しめているという結論は妥当だろう。僕たちは金のために労働しなければ路頭に迷うか、サーカスの輪を潜り抜けるように生活保護を受給したうえで、人々からの誹りやケースワーカーのマイクロマネジメントを甘んじて享受しなければならない。そのような事態を避けるために、言い換えれば人として尊厳を保ったまま生きるために、僕たちは労働を余儀なくされる。

金の心配さえなければ、労働は強制されない。そのとき人は、手持無沙汰で居心地が悪くなった僕たちのように、なにか人に貢献せずにはいられなくなるのである。

貢献しない人が、差別されるのでは?」という疑問は、貢献欲をベースにした社会を目指すアンチワーク哲学に対して頻繁に寄せられる疑問である。しかし、餃子づくりの場面を見ればそれは杞憂であることがわかるだろう。僕以外の客たちは、餃子づくりに熱中していて、手持無沙汰であった僕たちのことを気にもかけなかった。そして「やらせてください」と言えば「じゃあ・・・せっかくなんで・・・」と、まるで公園でブランコの順番を代わるように、少し名残惜しそうに譲ってくれたのである。自分が楽しんでいるときに「さっさと餃子づくりを変われよ。常識だろ?」などと叱責しようという考えは、ちらりとも思い浮かばないのが普通だろう。貢献欲をベースにした社会は、きっともっと温かい社会に変わっているはずだ。

そして、「俺はこれだけ貢献したんだから、もっと餃子をよこせ」などとは誰も言わないのである。なぜなら、楽しくてやっているのだから。こんな特殊なお店に行かなくても、たとえば友達とBBQをしているとき、ずっと網の前で焼いてばかりいるお節介な奴の一人や二人に、誰しも出会ったことがあるだろう。彼はたいてい焼いてばかりで、ほとんど自分では食おうとはしない。みんなが食っているのを見て満足しているのである。帰り道に「俺ばっかりが焼いてぜんぜん食えなかった」などと愚痴を漏らすことはないのだ(もしそう愚痴る前に、誰かが「お前焼いてばっかやから代わるよ?」と言い出しているはずである。そして、たいていそのお節介な奴は「いやいいよ。俺ちょくちょく焼きながら食ってるから、みんな食べといて~」と返事をするのだ)。

こうした事態にフィットする説明は、ずっとこの社会には存在していなかった。「なんだかお節介な奴がいる」「変わった世話好きの人がいる」という程度である。しかし、多かれ少なかれ人は世話好きであり、お節介なのである。

この前、僕はベビーカーを電車に乗せるのに少しだけてこずってしまった。すると、その様子を見ていた乗客が三人ほど同時に手伝おうと動き始めたのである。その瞬間に僕はベビーカーを乗せられたので、手伝ってもらうには及ばなかったものの、もし僕が上手くやれなかったら、彼らは僕を手伝ってくれたのだ。もちろんそんなことをしても自分には一円の得にもならないし、見ず知らずの僕の好感度を高めたところでなんの見返りもない。

「貢献欲は、友達や家族には発揮されても、見ず知らずの他人同士では上手くいかない」というのも、アンチワーク哲学に対するよくある疑問である。しかし僕は心配いらないと思っている。たまたまお店や電車で居合わせただけの人を僕たちは信頼し、手助けしてしまうのだ。世界の果ての人々と同じことができないと、どうして言えるだろうか。

小さな労働なき世界に出会えた。きっと僕は間違っていないと思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!