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食品ロスさえ出さなかったらセーフみたいな風潮

食品ロス減らす前に、作る量と食う量減らせよ。未成年ならともかく、成人がいきていくのに必要な食事量なんて大したことないわけだし。とくに、体を動かさない現代人は。

ならば、もっと食う量を減らすための啓蒙を行った方がいいと思うね。そうすれば生産~運搬の過程で発生するCO2も、土地の疲弊も、農薬の流出もやや軽減できるし、アニマルライツも、海の豊かさもやや守られる。「やや」だけどね。

ついでに労働力も節約できる。「雇用を守らなければならない」と「効率化しなければならない」は、自分好みに使い分けられる便利グッズなわけだが、僕は雇用なんて守る必要はないと思っている。その人が食っていけるならね。要は必要最低限以上、食えることが問題なわけで、雇用は問題ではない。

話が逸れた。食品ロスの話だ。食品ロスを減らそうと言いながら持ち帰り用のプラスチックトレイを置くというのは、最もお手軽なSDGsウォッシュだね。

僕はSDGsそのものがグリーンウォッシュと思っているから、SDGsウォッシュをされようがどうでもいいわけだが、なんかやっぱりムカつく。

結局、消費を減らす方向には世の中は進んでくれない。大人たちは、サスティナビリティと経済成長を両立させるという曲芸を練習し、市場というサーカスで演じる。実際はどっちも失敗しているのだけれど、成功しているかのように見せかけることは上達してきた。

まぁそれでも、食品ロスも馬鹿馬鹿しいことには変わりはない。生産量の3分の1を捨てるなんて、正気ではない。B5用紙1枚分の面積の上で出産の苦しみを毎日味わったのちに生きたまま熱湯にぶち込まれる雌鶏も、生後間も無くシュレッダーにかけられるオスのひよこも、ゲージの中でファックされ続ける豚も、ゴミ焼却場で燃やされるためだけに想像を絶する苦しみを味わわされているなんて、イカれているとしか言いようがない。

もう一つ遡れば、その家畜たちが食べさせられる大豆飼料のために破壊された熱帯雨林がある。そこにどれだけの悲しみがあったのか、僕は知らない。苦しみという言葉では表せないほどの凄惨さの中で生み出された商品たちで食いつないでいくために、僕たちはコンクリートジャングルで涼しい顔をしながら「イノベーション」とか「モチベーション」とか「ビジョン・ミッション・バリュー」とかキラキラ虚しいキーワードを打ち込んでいる。その忌々しいコンピューターの中にも、素手でレアメタルを掘る奴隷たちの労働が詰め込まれている。傍にあるコーヒーも、着ている服だって同じように奴隷たちが作ってきた。

この狂気じみたベルトコンベアの総体の中で生きている僕たちが極上の快楽を味わっているのなら、まだ理解できないこともない。しかし、動物たちの悲しみと、僕たちの幸福はおそらく比例していない。むしろ反比例しているような気すらする。

ならばなんだこの世界は? どんなディストピア小説よりも、ディストピア的ではないだろうか? 

それでも人は習慣に屈する生き物だ。ディストピアに生きれば、ディストピアに慣れる。僕みたいにあれこれ思案を巡らせる人は、基本的には生きていけない。アンリベルクソンが言うように、知性は破滅的なのだ。だから習慣が知性を遮って、本能を模倣し、最後に知性をそのガードマンとして雇用する。

話が逸れた。食品ロスの話だ。まぁ、いいか。

なんにせよこの世界は狂ってる。新海誠が言う意味以上に狂っている。こんなことを言っていれば、オーガニックでスピリチュアルなやばい男だと思われるんだけれど、やっぱ狂ってるよ。

人間は狂わずにはいられないものなので、狂っていないように見えても、他の狂気から見れば、やはり狂っているのである。

パスカル『パンセ』

やっぱ、ベジタリアンになろう。そうだ、そうしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!