「いただきます」を言えば、何食ってもセーフみたいな風潮
あるよね。
感染症と骨粗鬆症でボロボロになりながら身動き一つ取れないゲージの中で一生産卵を強いられる雌鶏の映像やのコメント欄に必ず現れる人種がいる。
なんだろう。何かが間違っているような気がするが、とにかくこの人が自分を正当化して、現状を変えたくないということはわかった。
確かに、生きるには命を食わねばならない。それでも、狩猟採集民は命をいただくにしても動物に苦痛がないように配慮するらしい。配慮すればいいって話でもないと思うが、狩られるだけならまだマシだろう。道を歩いていたらいきなり拳銃で脳天をブチ抜かれるのと、アウシュビッツで1年間強制労働させられてからガス室送りになるのと、どっちがいい?
また、江戸時代の農民なんてほぼ肉は食ってない。現代にもビーガンは大勢いる。その人たちも命をいただいているわけなのだが、もっとマシなやり方を選んでいる。
要は、「いただきます」は何も変えない為の言い訳だ。罪悪感に蓋をするための宗教的合理化と言える。
みたいな苦し紛れの言い訳が返ってくるのが、ビーガンに対する最終的な応答になるわけなのだが、まぁ苦しい。農業も土壌の生命の多様性を損なっているという攻撃の方が、まだしっくりくる。
とかなんとか言っても僕は肉を食ってきた男だ。この体の何割が、工場畜産でできているのかと思うと、吐き気がする。
っていうのもそりゃあそうで、余計に死にたくなるよね。
まぁだからと言って、何も変えない理由にはならない。1日に100人を殺す殺人鬼が現状維持するくらいなら、せめて1日99人に減らしてくれた方がいいに決まっている。
でも本音を言えば、僕だって何も変えたくない。ワンカルビにも行きたいし、マクドナルドにも行きたい。工場畜産について丸一日調べてどんよりした気分になった次の日に、松屋で牛丼を食ったりする。インポッシブルフーズとビヨンドミートには頑張って欲しいところだ。
あぁ、もう嫌になるぜ。
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