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ブルシット・ジョブ目撃談【雑記】

夕方のニュースを見てたらこんな話が取り上げられていた。

昼休みに入る前に弁当をレンジで温め始めて(その回数なんと188回!)、就業する30分前にPCの電源を落としていた60代・水道局勤務の男が訓告処分を受けたという話題だ。これをみて「ブルシット・ジョブじゃん」という印象を抱かずにいることはむずかしいと思う(BSJの書籍でも、水道局勤務のブルシットジョバーが取り上げられていた)。

コメンテーターたちの反応は散々だった。「いや188回誰が数えてん」とか「職務専念義務違反だ」とか「税金の無駄」そんなものだ。しかし、誰一人として次のようには発言しなかった。

やることないなら、早く帰ってもらったらええやん?

この状況から察するに、誰がどう見てもその職場は暇なのだ。本人もそうなのだけれど、188回数えている奴も暇なのだ。なら、さっさと帰ればいいという結論は避けがたいと思うのだが、なぜかそうはならない。

おそらくその場にいたコメンテーターたちが60代の男に求めていた行動は、「やることがなくても、エクセルを閉じたり開いたりしながらPCの前で座ること」なのだ。そうでなければ、もっと違う批判が起こらなければおかしい。「空いた時間は業務改善にあてるべき」とか「サービス品質向上のために使え」とか「彼の管理者は彼に対してなにかしらの業務を命令すべき」などだ。こうした批判は一切起こらなかった。

このように考えれば税金の無駄などという批判は示唆的である。なぜなら、彼は30分相当のPCの電気代を節約することに成功しているのだ。彼が何かをやっているふりをしながらPCをつけていたら、その分、税金が使用されることになる。

つまりこのことから「税金が何に使われるべきか」についての世論が浮き彫りになる。「有益な目的であろうがなかろうが、とにかく職務に専念している見かけを維持すること」に税金が投入されるべきであると、世論は考えているわけだ。

この状況を未来の人々が見たらどのように感じるだろうか。「宗教的なしきたりに盲目的に従うイタイタしい労働教の信者」といったところだろう。もし僕が未来人だったならこう思うはずだ。「彼らには神話的な思想に侵されている! 早く合理的思考を啓蒙しなければならない!」と。

ところがどっこい僕たちは自分たちは合理的思考により啓蒙されていて、神話的思想とは無縁であると思い込んでいる。人間っていうのは結局自分の置かれた状況を冷静に観察できない生き物なのだ。

いやまぁ僕が冷静に観察できているのかはわからない。なにがいいのかはわからない。でも、冷静に考えてみようとすることはできる。一回立ち止まって考えてみる。哲学ってのはきっとそういう営みなのだろう。


1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!