相互不扶助を助長する社会

例えば、レストランが生まれれば友達のために料理を振る舞う機会が少なくなるし、保育園が生まれれれば友達の子供を預かる機会がなくなる。保険会社はお金を工面し合う関係性を破壊したし、料理教室は母親から料理を学ぶ機会を奪う。全てを金を払って受けるサービスに変えてしまうのだ。

「それの何が悪いことなのだ?」という意見もあると思う。人々は分業することで、苦手な皿洗いやおむつ交換に時間を取られることなく、マーケティングとか、ピンの先っぽを作ることとか、自分が得意なことだけに集中し、社会全体の生産性が高まり、経済が豊かになる…というわけだ。

一見正しいが、回り回って非効率なことをしていることに気づかなければならない。金がなければ何もできない僕たちは、金を稼ぐために右往左往しなければならなくなった。結果として、中東からやってきた石油がタイの工場でプラスチック製のオモチャに変わり、西松屋に大量に並べられ、孫に手作りの手袋をプレゼントする代わりに、1日で飽きてしまうゴミみたいなプラレールを爆買いする社会が誕生する。地球の裏側からホルモン漬けの鶏肉が輸入され、コンビニのゴミ箱で腐る。どこからどうみたって「効率的」には見えない。プラレールや鶏肉は、その労力やそこから生まれる苦しみに見合うものだろうか? それなのに、何も考えずとにかく買わせるために幸せの形は広告宣伝される。

「皆さんの暮らしを豊かにし、社会課題を解決する、とっておきのサービスを立ち上げました!」と起業家は自信満々だが、それが逆に社会を破壊しているように僕には見える。自分たちで協力しあって、ややこしい人間関係も受け入れて、長いこと僕たちは生きてきたのだから。保険屋や保育園が登場してから、「周囲に頼らず自分たちの金で解決すべきだ」という相互不扶助の道徳が誕生してしまった。あらゆるサービスは、相互不扶助を助長するのだ。

この前、家でピザを作った。強力粉を捏ねて具材を乗せてオーブンで焼いたら、デリバリーピザよりも美味かった。素材はぜんぶ金で買った。でも、作ってデリバリーするところは、金で買わなかった。今度からパンも自分で捏ねようと、そう思った。

その次は、小麦を育てたい。いま、近所の畑をタダで使わせてもらっていて野菜を育てているのだが、野菜だけじゃなくて、小麦も米も育ててみたい。もちろん金がかかる農薬も肥料も使わずに、宗教じみた農業をやってやるのだ。

本当は自分たちだけでできる。放っておいてくれたら、僕たちは自分たちで解決してみせる。太陽光パネルも、水洗トイレも、救急車も、インターネットも、どれも必要ないはずだ。

かつては僕は貨幣経済にどっぷり浸かったコミュ障だった。今もそうかもしれない。今はリハビリ中だ。相互扶助は、貨幣経済とは別の意味で骨が折れる。でも、そっちの方が楽しそうだ。

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