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なぜインターネットではレスバトルが起きるのか?【雑記】

相手の意見を一笑に付し、自分の知的優越性を顕示しようとする人々をインターネット上で見つけることほど容易いことはない。

今回僕が考えたいのは、なぜこのような事態が生じるのか、である。果たしてこの問題は、「人間が本来持つ自己顕示欲や承認欲求のせいである(だから仕方ない)」という表面的な説明で片付けるべきなのだろうか?

僕は、現代ほど知的能力に重きが置かれるようになった時代はないと以下の記事で指摘した。

かつては富の格差は血筋や資産によっで説明されていた。ほんの数百年前には「教育で社会を豊かにしよう」などという言説は頓珍漢なものとして人々の目に映ったという。

だが、現代においては富の格差は知的能力によって説明される。「彼は頭がよく、市場で賢く振る舞ったから富を所有している」というわけだ。

ここで注目したいのは、知的能力という概念の曖昧さである。血筋や資産は誰がどうみても明らかなものだ。「俺は落ちぶれているが、実は天皇家の血筋であり、本来、もっと尊敬されるべき人間なのだ」などと主張する人物もいなかったわけではないだろうが、さほど説得力があるとは思えない。しかし、「俺は実は頭のいい人間なのだ。俺が落ちぶれているのは単に運が悪かっただけにすぎず、俺は本来もっと尊敬されるべき人物なのだ」と主張することはさほど難しくない。もちろんそれを他人に納得させることは難しいが、自分を納得させることは簡単なのである。

頭がいいというだけで富や尊敬を集めることができなかった時代なら、「俺は実は頭がいいんだ!」と言ったところで「だからなに?」という話になり、大したメリットはない。だからわざわざ頭の良さをアピールする人は多くなかった。だが、現代では頭がいいだけで富や尊敬を集められる(ということになっている)ので、ことさらに頭の良さをアピールする人がたくさんにいるのではないだろうか。

さらに、相手の意見を聞き入れずマウントを取ろうとすることは(少なくとも自分自身に対しては)自分の知的優位性を顕示する最もインスタントな方法である。だから、知的にマウントを取ろうとする人が現代では多いのではないだろうか。

そして、誰もが知るように結果は散々である。

マウントを取ろうとする態度で議論に臨んだ場合、その議論が有益になることはない。有益な議論には、相手の意見に耳を傾ける態度が欠かせないのだ。過去の人々は、知的優位性を示す必要が現代人ほどはなかった。なら、相手の意見を自然と聞き、議論の場でわざわざマウントを取ることは少なかったのではないか。その結果、有益な議論がそこら中に溢れかえっていたのではないだろうか。逆に、不毛なレスバトルが生じるのは知的能力への信仰が高まった現代特有の現象なのではないか?

そんな気がする。とは言えこれは皮肉な状況であると言わざるを得ない。周囲から見て知的な人とは他者の意見を即座に否定しようとせずじっくり耳を傾ける人物なのである。そのような人物の方が他者から多くを学び、純粋な意味でも知的水準が高まっていくであろうことも想像に難くない。逆に自分の知的優位性を確信し、他者をバカにする人ほど知的水準が低レベルにとどまる。

これはいわゆるダニングクルーガー効果というやつで、バカほど自己評価が高いという普遍的な現象らしい。

ここで僕がひとことなにが言うとするなら、僕が理想とする労働なき世界においては、頭がいいとか悪いとか、そんなものを気にする必要はないということだ。

なぜならそれは他者からの評価に過ぎないからだ。他者からの評価を気にしないといけない状況とは、外発的な動機付けによる行動で人生が支配されていることを意味する。「頭がいい」と思ってもらって内定をもらい、クライアントから発注を貰い、出世競争に勝たなければならない・・・そんな外発的な動機に支配される人生は、労働に丸ごと支配されているに等しい。

労働なき世界とは、内発的な行動で人生が埋め尽くされる世界を意味している。

そのとき、「頭がいい」というラベルを手に入れることはさほど重要ではない。目の前にある問題を攻略するために、あるいは自己表現や興味の追求のために人は頭を働かせる。その壁を乗り越えたとき、彼は結果としてその前よりも頭がよくなるわけだが、頭をよくするためにその行為に取り組んだわけではない。行為そのものが彼にとっての目的なのだ。「頭のよさ」は結果に過ぎない。

そもそも知能とは、行為に取り組むためのメソッドの束と応用力に過ぎない。ペットボトルの蓋を開けたいとき、二等辺三角形の面積を求める問題を出されたとき、ハンドルを握ったとき、玉ねぎをみじん切りにするとき、共産主義者を目の前にしたとき、どのように行為するのが効率的かを考え、過去の実践を繰り返すのか、あるいは応用的に取り組むのか、あるいはまったく別の方法を試してみるのか、そうした態度の効率性や有効性を総合して「知能」を暫定的に評価している。「未経験の行為に取り組むときのメソッド」という一段上位のメソッドはかなり有効なスキルなわけで、そうした能力は「頭がいい」と評価されるに値するかもしれないが、その能力の獲得も結果に過ぎない。あくまで行為そのものに着目すべきだろう。

教育とは、彼が取り組みたいと感じる行為に取り組むための能力の獲得プロセスをサポートすることと言い換えられる。あるいは取り組みたいと感じる対象を見つけるサポートも必要かもしれない。それは彼の自由をより開放することになる。彼が折り紙を切りたいと思ったときにハサミの存在を示唆し使い方をレクチャーする(あるいは情報収集の方法を示唆する)。すると彼はハサミを使えば様々なものが切れることに気が付く。しかしハサミでは切れないものを発見する。そのときカッターの使い方を習得する。次はのこぎりに行って、いつしかチェーンソーを手にする方向に彼の興味が向かう。そんな可能性もあれば、折り紙を切り続けて美しい切り絵をつくることに情熱を燃やす可能性もある。彼がなにに興味を抱くかはわからないが、それはすべて内発的な動機付けによる行動であり、彼にとって満足のいく活動である可能性が高い。そのとき、彼が自分が頭がいいとか悪いとか、そんなことを気にするだろうか? 彼は単に目の前に行為に夢中になっているだけで満足しているのだ。

頭がいいと他人に証明できるラベルを手に入れるために机にかじりつかせることを教育とは呼びたくない。それは他人の評価に人生を支配されることを受け入れさせる結果にしかならないのだ。

かなり脱線してしまった。ともかく、頭がいいとか悪いとか、そういうことを気にしなくていい社会をつくりたいと思う今日この頃である。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!