「機能性見せびらかし消費」と「コスパ見せびらかし消費」

今、ピエール・プルデューの『ディスタンクシオン』を読んでいる。「趣味」がいかに階級や文化資本によって規定されているかを読み解き、そこから社会の分断を鮮やかに描き出している本…ということで合っていると思う。

この本が書かれたのは1979年。プルデューはフランス人。ということで、2022年の日本に生きる僕にとっては、「プチブル」「文化貴族」「ブルジョア」といった言葉を見つけると居心地が悪い思いだ。まぁ「中小企業の社長」「貴族や財閥出身の京都人」「成金」と読み替えれば日本人でも理解しやすいだろうか。

しかし、僕が最も現代との違いを感じたのはそこではない。文化資本が蓄積されればされるほど、機能性を無視した美を重視する傾向にあるというプルデューの指摘だ。

僕が思うに時代はもう一巡したような気がする。今の文化貴族は、ゴテゴテしたブランドを盲信したりはしない。スティーブ・ジョブズとiPhoneあたりからだろうか、文化の最先端は「スマート」に移った。つまり、シンプルで、機能性を重視し、その中に美しさを見出すという文化だ。今の文化貴族のトレンドは、「機能美」なわけだ(UIという言葉は、それを象徴する概念だと思う)。

パソコンも、ペンも、スマホも、ファッションも、WEBサイトも、機能的であることが何よりも求められる。正直「そこまで機能性必要か?」と思うようなものについても、「このラインが無駄」とか「この装飾は何のために存在する?」と、説明が求められる(もはやこじつけだろう…と思うような機能性もある)。「機能性パラノイア」とでも言えるような、機能性への盲信と固執が、そこに存在するのだ。

なぜ必要以上の「機能性」が求められるのだろうか? おそらく、見せびらかし消費の時代が長く続いた結果、「見せびらかし消費はダサい」という風潮が新たに生まれたのではないだろうか。

だが、機能性パラノイアも新しい見せびらかし消費にすぎない。「自分は見せびらかすための消費をしているのではなく、機能性を追求している実質主義者であること」を見せびらかすための贅沢品なのだ。

まぁ、だからなんだ?という話なのだけれどね。別にそれが悪いことだとは思わない。僕も機能性見せびらかし消費をすることがあるし。

似たようなパターンとして、「コスパ見せびらかし消費」という見せびらかしも存在する。

「このTシャツいくらやと思う?」
「ん~1000円くらい?」
「500円(ドヤァ)」

大阪人の日常会話

これはちょっと庶民的だけれども、文化貴族的な人もコスパ重視の風潮は確かに存在する(と思う)。

『消費社会の神話と構造』に書かれていたように、僕たちはどれだけ実質主義者を装っても、差異のシンボルとして消費をしてしまうわけだ。

コスパのためなら、いくら金をかけてもいい。

僕の気持ち

まぁ、だからなんだ?という話なのだけれども。

とにかく「こういうことに気づいたよ!」と僕も見せびらかしたかったのだよ。

哲学者たちも、称賛してくれる人が欲しい。また、そうした批判を書いている本人も、批判が的確だと褒められたいがために書くのだ。また、その批判を読んだ者も、それを読んだという誉れが欲しいのである。そして、これを書いている私ですら、おそらくは、そうした願望を持っているだろう。また、コレを読む人だって…

パスカル『パンセ』

あぁ、人間ってめんどくさいね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!