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スク水の話はもういい? 残念、スク水の話だ

今日は嫁と子どもが出かけた。僕は特に予定はない。買い物と晩御飯の仕込みと部屋の掃除を終わらせれば自由時間である。

やりたいことは山ほどある。積んでいるゲームや本は山ほどある。noteも書きたい。本も書きたい。そろそろパンを焼きたいとも思っていた。そういえば塩麹も作らなければいけない。

結果、僕が選んだのはグラビアアイドルが水着を着てはしゃいでいる動画を眺めることであった。最近はやたらと性欲が強くて、そろそろ妻を抱きたい頃合いである。そんな気分だから、ついついDMM動画を開いてしまった。

しかし今晩、妻を抱くためには水着姿のグラビアアイドルを観ても我慢しなければならない。我慢するということは、区切りがつかないということだ。普段僕が動画を観る時間は5分か10分くらいのものである。しかし、今日は区切りがつかないせいで、だらだらと長時間も眺めてしまった。

だが、結論から言えば、決して無意味な時間の浪費ではなかった。きちんと収穫があったのだ。

この前、僕はスク水についての記事を書いた。

その中で、昨今のグラビアアイドルのイメージビデオにはスク水の登場頻度が少ないことに対して警鐘を鳴らした。が、過去作品を掘り返していると、たまたま発見してしまった。

佐山彩香『素肌』である。

発売自体は2015年とそこそこ古いが、僕は2023年にこの作品をDMMで購入した。ジャケットのに惹かれてサンプル画像をチェックしていたら、スク水シーンがあったからだ。

サンプル画像。なんという素晴らしいアングルだろうか。この画像を観た途端に、僕は購入ボタンをクリックしていた。

ポリエステル製で、股間部分が分離しているいわゆる「旧スク」タイプ。シャープな印象のあるナイロン生地とは異なり、マットな印象のスク水であり、生々しく女性の身体を描写してくれる。

佐山のように、ややふくよかな体型のグラビアアイドルには、ポリエステル生地がよく似合う。

※ちなみにナイロン生地のスク水はこちら。シャープでスレンダー体型の女性によく似合う。

スク水TVより。

とはいえ、スク水シーンがあるというだけでさほど期待していたわけではなかった。イメージビデオにおけるスク水の表現は洗練されておらず、たいしたレベルではないだろうと思っていたのだ。

結論から言えば、それは誤りだった。

僕の目の前に現れたのは、スク水という素材のポテンシャルを120%活かして、アングル、シチュエーション、ポージング、ありとあらゆる妙技で僕を興奮に誘う佐山彩香の姿である。

下半身のふくよかさが、この上なく表現されたアングル。ダヴィンチは自然界に境界線などないと言ったが、ポリエステル生地はさらに境界を柔らかく表現する効果があるらしい。
水面からお尻を浮かべては沈めるシーン。スク水の吸水性を利用して、即座に水分が吸収されていく瞬間にお尻の質感が変わる様子を描写している。さながら黄金の夕焼け空に照らされた潮の満ち引きである。
二つの音楽を同時に鑑賞することはできないと岡倉天心は『茶の本』に書いた。このカットは、浮き輪によって否応にもふくよかな太ももに注意が注がれることで、「太もも」という重厚な音楽だけを味わえるよう慎重に計算されている。
常人では思いつかないアングルである。お尻の立体感を捉えつつも、ししおどしが沈黙を際立たせるように、(画像では分かりにくいが)スク水から滴り落ちる水滴が女体を際立たせている。スク水好きにはたまらない。
太ももからおっぱいにかけての描写。個人的に衛生面が気になるところではあったが、この豊かな身体を見ているとそんなことはどうでもよくなってくる。
ジャケットで描かれた脇もしっかり押さえてくれる。スク水は露出が少ない分、数少ない露出箇所の1つである脇にフッとフォーカスするだけで「露出感」が前景に現れてくる。
肩紐を引っ張って弾いて音を鳴らすシュールなシーン。シュールではあるが、なぜか自分も鳴らしたい気分にさせられる。なぜだろうか。
ここまで焦らされてきた谷間をようやく見れるシーン。九鬼周造風に言えば、諦態からの媚態と言ったところだろうか。焦らされてきたからこそ放つ谷間の玉のような輝きである。

込み上げる想いをグッと堪えながら、スク水のチャプターを何度も繰り返し視聴してしまった。しかし、何度観ても飽きない。観るたびに新しい発見があり、興奮は冷めやまない。

イメージビデオ業界におけるスク水の表現はほとんど開拓されていないと、先の記事では書いた。しかし、僕は間違っていた。この映像では素晴らしい表現手法が無数に登場している。

僕が知る限りこんなことができる男は1人しかいない。女性の身体の魅力を知り尽くし、天才的な頭脳で無数の表現手法を生み出してきたあの男である。

僕はクレジットを確認した。やはり、われらがノムラヨシキの仕業であった。

※ノムラヨシキについては以下の記事を参照。

ノムラヨシキの手腕に感動と興奮を覚えたあとで、ふと冷静になる。彼はスク水による表現手法を既にこれだけ開発しているというのに、なぜ彼は他の作品においてもっとスク水を活用しないのだろうか?

やはり、この世界の評論家不足という現実が重くのしかかっているのかもしれない。この作品のAmazonレビューをチェックしていると、その事実をまざまざと見せつけられた。

全然ダメ

個人的に既存の評価は、ファン目線有りきと思いますね。抜けるか抜けないかの評価で言えば、間違いなく抜けない作品に間違いなく、ヌードまで披露してしまったグラドルの作品ではない。まず、衣装が悪い。何時までスク水を着せるのだろう。望むのは、もっと切れ込みの激しいハイレグだろ!そして、もっと面積が小さいレースの下着か、Tだろう!アイス舐めも保守的で、ヴァージンっぽさを演出するのはお門違い!メイドっぽい衣装ももう飽きたよ。可愛さを押し出すよりも、もっと妖艶な演出をしていただけないないもんだろうかと残念に思う。

何時までスク水を着せるのだろう。望むのは、もっと切れ込みの激しいハイレグだろ!」という一文は単なる趣味領域の違いで片付けるわけにはいかない。このレビューを書いた人物は明らかに露出度至上主義に陥っている。繰り返すが、性的興奮において露出度はさほど重要ではない(通常、セックスは暗闇の中で行われるのだ)。

露出すればするほど、視覚情報だけに頼った貧弱な興奮しか得られることはない。露出がないからこそ、肌の質感や柔らかさを表現することができ、そこから肌触りや匂い、音といった情報を視聴者側から掛け合わせる、一座建立とも呼べる興奮体験が得られるのだ。

人が情報を受け取るとき、単純に五感の1つだけを動員するのではない。ベルクソンは「記憶の染み込んでいない経験など存在しない」と言った。プルーストが紅茶につけたマドレーヌを食した瞬間に少年時代の記憶を蘇らせたように、外部からの入力をトリガーとして、自分の過去の記憶とネットワークを構築していき、1つの意味世界を生み出していく。様々な記憶と複雑に絡み合うことによって、より豊かな意味世界が生まれる。

イメージビデオも同様だ。視覚情報だけで興奮させようとするようなジャンクグラビア作品は二流である。脳はネットワーク構造によって複雑な意識体験を僕たちに届けてくれる。視聴者の中にある肌触りや匂い、音といった記憶にアプローチし、ニューロンを次々に発火させていく作品こそが一流である。

もちろん一流の作品には一流の鑑賞者が必要である。松尾芭蕉の俳句も、幼稚園児からすれば文字の羅列に過ぎない。だが、イメージビデオの世界には、芭蕉の俳句を文字の羅列としか捉えられない鑑賞者しかいないのだ。

この世界の財産は、スク水による高度な表現の数々は、きっといつの日か永遠に失われるだろう。だからこそ僕はスク水の灯火を大切に守りたい。

こうやって素晴らしい作品や表現を紹介することで、誰かがその魅力に気づけば、また別の誰かに紹介してくれるはずだ。だから地道であってもこの活動を続けていこうと思う。

何度も何度も、天に向かって真っ直ぐいきり立った先人たちの情熱が、希望を照らし出す灯台が、未来を輝かせ続けるように。


■参考文献

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