「あ、あなたまだ"そこ"のレベルにいるのね笑」という感覚について

ちょっと本腰を入れて他人と意見を交わすと、僕はこの感覚に陥ることが多い。

例えば、僕が「お金を使わない暮らしをしたい」という話をすれば「それはお金を稼いだ事のある人間が言うべきだ! 稼いでもいないのに、そんなことを言うのは"逃げ"ではないか?」みたいな反論が返ってくる。

今までの人生で、その反論を何度耳にしたことか。

このロジックは崩壊しているということは明らかだ。僕は2つの方法でこの議論を論破することができる。

1つ目のパターン。僕の年収は500万円程度だが、これでは稼いだとは言えない根拠はなんなのか? 稼いだの基準はいくらなのか? 年収1000万円か? 1億か? これらもビルゲイツやウォーレンバフェットに言わせれば稼いだうちには入らなさそうだが、どうなのだろうか? もしかしたらビルゲイツですら、ジェフベゾスに言わせればまだ稼いだとは言えないかもしれないがどうなのだろうか?

突き詰めていけば世界一の大富豪であるジェフベゾスは、ジェフベゾス以外の全人類を、金のために一心不乱に働かせる権利があるということになる。もちろん、そんなことを主張するのはイカれている。

2つ目のパターン。「お金がない暮らし」を試す権利を得るためには「お金がある暮らし」を体験しなければならないと主張するなら、「TUBEがリリースしたすべてのアルバムを聴かない暮らし」や「ウガンダの民族舞踊を体験しない暮らし」や「カブトムシの幼虫を食べない暮らし」を試すためには、これらを一度体験しなければならない!という主張を否定できないことになる。もちろん、僕はどれも体験していないし、これからも体験するつもりはない。おそらく多くの人も同じだろう。これらは体験しなくてもOKだが、お金に限っては体験しなくてはならないと考える理由はなんなのか? それを説明することは不可能だろう。

さて、これらの通り、僕は完膚なきまでに論破することができるが、現実にこんな話をしたことはない。たぶん最後まで話す前に遮られるか、話し終えても理解されないことか、単なる屁理屈として却下されるのが目に見えているからだ。

だから「あ、あなたまだ"そこ"のレベルにいるのね笑」と心の中でつぶやいて、苦笑いするのだ。

はっきり言って「お金を稼いだ〜」理論はありきたりな一般論だ。だが、それを発言する人はあたかも「自分が独自にたどり着いた真理である」というような顔をしている(一般論ってそういうものだと思う)。

だからその人は「俺はこの真理に辿り着いたが、君はまだなんだね‥」と感じているはずだ。つまり僕と同じことを感じている。

そして僕は「耳を傾けるに値しない人物」とか「正しいことを理解できない馬鹿」とか「イカれた理論を唱えるイカれた奴」といったカテゴリーに分類される(その後の反応からそのように感じているのは、僕の被害妄想だろうか‥)。

そういう人に限って「人の意見を否定するべきでない」とか「常識を疑うべき」と言ったりする。基本的に自分の常識を疑わないし、自分と違う他人の常識しか疑わないというのに。

僕は、「どっちが上で、どっちが下か?」とか、そういうことを言うつもりだ。僕が上で、その人が下だと思っている。

しかし、もしかしたら僕の意見すらその人にとっては、とっくに検討済みであり、論破可能だったとすればどうだろうか?

うん、わからない。結局、僕も同じ穴の狢なのかもしれない。いつだって自分は正しくて、他人は間違っている。

まぁ、もう考えるのは疲れたよ。お互いに好きなだけ見下しあって生きていこう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!