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「機能性見せびらかし消費」「コスパ見せびらかし消費」(再考)

かつて、片手間でこの2つの概念を紹介した。これはネモ・ノーベル経済学賞を受賞した重要な概念でありながら、あまり体型的にまとめてなかったので、改めて書いておこうと思う。


前提として

「見せびらかし消費」はダサい。空疎なブランドに踊らされるのはバカな成金や田舎のヤンキーだけである。これはほとんど社会の共通認識であると言っていい(全身GUCCIで固めることがクールであると信じて疑わない中年男性もいるにはいるが、彼は少数派だろう)。

だからと言って、ブランドを完全に敵視するのも教条的でクールではないという考え方も同時に広まっている。

ではいま、なにがクールなのか? それは機能性やコスパに応じて「あるときはブランド品」「あるときはユニクロ」と、柔軟に消費する実質主義的な振る舞いだろう。

要するに「私は見せびらかし消費なんてものには、微塵も興味はありません。ただ、コスパや機能性を追求した結果が、今のライフスタイルなのです」という顔をしていることがクールなのだ。

そして、それ自体は必要性を遥かに超えた見せびらかし的な競争の様相を見せつつある。つまり、コスパや機能性を見せびらかすことが目的化しつつあるのだ。

もちろん、コスパと機能性のどちらをどれだけ見せびらかしたいのかは、人によって異なる。それぞれのケースを順を追って確認していこう。


コスパ見せびらかし消費とは何か?

チラシと睨めっこしては数円のために車を走らせるべきか? あるいは、ガソリン代を考慮して近場で済ますべきか? このような議論に人は熱中してきた。

このとき、争点となっているのは「真のコスパの良さ」だ。目先の大根の値段の安さを追求することは、ガソリン代を考えたときに真のコスト削減にはなり得ない可能性もある。あるいは、「フリーランチはない」の発想で運転の手間そのものを時給計算して、仮にガソリン代が安くても近場で済ますべきという意見もあるだろう。

これらの発想には一理ある。

だがよくよく考えれば、この議論をしている時間があれば、遠くのスーパーまで自転車を走らせることくらいできることに気づく。もちろん議論をしている人も気づいているだろう。

それでも議論をやめないのは、この議論の場で自らのコスパの良さをアピールすること自体が目的化しているからなのだ。

実際、こういう議論をしたことは誰にだってあるだろう。僕もある。そして好きだ。楽しいからだ。「真にコスパの良い暮らしをしているのは俺だ!」と証明することはこの上ない快感がある。

そのために人はコストコに行き、ガブガブくんを飲み、GUで服を買い、格安SIMを使う。

ただし、議論をややこしくするのはコスパの「パ」の部分だ。安さだけを競うならばルールが明確なのだが、コストあたりのパフォーマンスを問い始めると、一筋縄ではいかない。

だからこそ、格安SIMに切り替えるのが億劫な人は「通信速度が‥」と言ってパフォーマンスの話題に逃げ込み、「本当はコスパの悪い暮らしをしているのではないだろうか?」という罪悪感を回避することが可能になる。

ダイソーだけではなくスリーコインズが支持される理由や、GUだけではなくユニクロが存在する理由はここにある。コスト最重視派はダイソーやGUで買い物をし、パフォーマンスもある程度大事にしようとする人はスリーコインズやユニクロで買う。

「いやいや、見せびらかしたいのではなく、単にコスパの良さを追求しているだけであり、あなたの言っていることは的外れですよ」と反論したくなる人もいるだろう。その反論自体が、僕の言っていることを証明していると言っていい。なぜなら、何処の馬の骨ともしれない僕を説得することほど、コスパの悪いことはないからだ。わざわざそんなコスパの悪いことをしてまでも、「自分がコスパの良い暮らしをしていること」を証明しようとすることこそが、「コスパ見せびらかし消費」の実態を証明しているわけだ。


機能性見せびらかし消費とは何か?

AirPodsとApple Watchを装着し、iPadでメモをとり、やたらと便利な500円くらいの有料アプリを紹介してくれる人がいれば、その人は機能性見せびらかし消費に邁進している可能性が高い。つまり、機能性の良い生活を周囲に見せびらかしているのだ。

(ただしアップル信者以外の人からすれば、彼はGUCCIで身を固める中年男性同様のブランド信者であるように見える。なんといってもアップルストアはGUCCIのショップの隣に建っているのだから。)

あらゆる高級ブランドはいま、機能性見せびらかし消費に邁進する消費者に訴えかけるようになった。Appleに限った話ではない。BMWはもと航空機メーカーであったという話を延々と繰り返し、自分たちの車の機能がいかに優れているかを証明しようとする。「ウチが高価なのはそれだけ機能性に優れているからであり、決して空虚に誇大したブランドなのではありませんよ」というわけだ。実際は、そののとを証明しようと躍起になって垂れ流す広告費を回収するために高価になっているというのに。

消費者はもちろんそのことを知っているが、あえて広告を鵜呑みにする。そうすれば自分が空虚なブランドに振り回されているわけではなく、機能性を追求する実質主義者であることを確信できるからだ。

高級ブランドに手が届かない人は、細々した裏ワザ的な消費によって機能性を追求する。ゲーミングチェアやデュアルディスプレイ、PCをちょっとだけ斜めに見せる謎の台、自動調理器、ルンバ、アレクサのようなものを買うのだ。


誰に見せびらかすのか?

「見せびらかし」という言葉には少し注意が必要だろう。見せびらかしの対象は家族や友人、同僚であることも多いだろうが、多くの場合、自分に対して向けられていると僕は考えている。つまりコスパの良い買い物をすることで、自分がコスパの良い人間であるという確信を強めていくのだ。

確信を強められたなら、つまり買い物を終えた瞬間、実を言うと買い物の目的は完了しているとすら言っていい。

コストコで大量買いしてきたキッチンペーパーを「安かったから」と言って周りに配るような人がいる。ありがたいが、よくわからない。コスパ主義的な発想からすれば、本来その商品を消費し切ったときに初めてコスパは発揮されるのだから、自分でそれを消費し切らなければならない。しかし、そうしないのは、もう既に買い物の目的は完了しているからだ。

また、セール品を買い込んでは結局使わなかった経験は誰にだってあるだろう。それも買うだけで満足してしまうという、全く同じ構造だ。


なぜ人は機能性やコスパを見せびらかすのか?

機能性も、コスパも、どちらも「合理性」の範疇に含まれる。つまり人は「自分が合理的であること」を他人や自分自身に見せびらかしているのだ。

なぜそんなことをするのだろうか?

そもそも「自分は合理的ではないかもしれない」と感じながら生きることは、この上ない苦痛だ。「もしかしたら自分はとんでもなく愚かなことをしているかもしれない」と不安になりながら歯を磨き、朝飯を食い、通勤電車に揺られている人は、恐らく近いうちに駅のホームから飛び降りるだろう。

「自分の行動には、為すべき理由がある」という確信があるからこそ、人は恥ずかしげもなくスーツを着て電車に揺られたり、スーパーで刺身こんにゃくを買ったりできる。

もちろん、合理性の根拠を問い正し続ければ、根源の部分に原初的な不合理が存在する。むしろ、それが存在しなければ、合理性そのものはなんの意味もなくなってしまう。試しにその辺りの通勤電車に乗るサラリーマンに質問をしてみたら、そのことがわかるだろう。

なぜスーツを着て電車に揺られるのか? 金が必要だから。なぜ金が必要なのか? スーパーで刺身こんにゃくを買わなければならないから。なぜ刺身こんにゃくを買うのか? 買わねば生きていけないから。なぜ生きるのか? 死にたくないから。なぜ刺身こんにゃくである必要があるのか? 刺身こんにゃくが好きだから。なぜ好きなものを食うのか? 快感だから。なぜ快感なのか? プルプルした食感が気持ちいいから。なぜ気持ちいいのか? 気持ちいいと思うから気持ちいい。

恐らく多くの人は「気持ちいいから」「好きだから」「楽しいから」のような、「快感」を合理性の根拠として用いていることだろう。もしかしたら宗教社会に暮らす人なら「神が決めたから」と言うかもしれないし、家父長制にどっぷり浸かった人なら「ルールだから」みたいに言うかもしれない。だが、現代日本においては、ほとんどの人は「快感」を基板に置いているように思う。なぜなら、宗教や前例を盲信する人は愚かであり、自分たちは自由な思考で自由にライフスタイルを決定していると考えているからだ。

この発想自体は啓蒙主義的で、リベラル的だ。これは現代の支配構造を根拠立てている神話であり、奴隷道徳であると僕は考えているが、これ以上は脱線が過ぎるのでこの程度にしておこう。

とにかく人は自分は合理的であると思い込みたいのであり、それを周位に見せびらかしたいと思っているわけだ。その結果、合理性を非合理に見せびらかすことになる。


まとめ

なんやかんや言ったが、もちろん僕は全ての消費行動の動機は100%見せびらかすためであると主張しているわけではない。コスパや機能性そのものを純粋に追求しているケースもゼロとは言えないだろう。だが、見せびらかすことが主たる目的であることは、概ね間違っていないように思う。

僕自身も、コスパや機能性を追求することはよくある。かつてはダブルチーズバーガーを頼むのではなくチーズバーガーを2つ頼むことで、チーズバーガー2つを食べる満足感を遥かに超えた、恍惚とした感情を手にしていた。あの感情を手に入れるためなら、どれだけコスパの悪いことをしてもいいとすら感じる(きっと皆さんも似とようなエピソードの1つや2つは持っていると思う)。

逆に考えると、合理性を追求することには、そこまで合理性はないと考えてみると、非合理的な行動を取ることに躊躇いがなくなる。効率が悪いことにいちいちクヨクヨする必要もなくなる。僕は大豆と塩麹から味噌を手作りするのが趣味なのだが、たぶん普通に味噌を買ってきた方が安くなる。コスパは悪い。でも、コスパ主義を抜け出せば、そんなことを気にせずに味噌作りを楽しめるのだ。

非合理であることは、もしかしたら合理的なのかもしれない。

いいね。楽しい人生だ。

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