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子どもの可能性なんて、いらない

「子どもの可能性は無限大」的な言説は、どうも好きになれない。あたかも、その子に価値があるのは大谷翔平や藤井聡太になれる可能性がまだ残っているからだと言われているような印象があるからだ。

子どもは日に日に大谷翔平や藤井聡太になる可能性が減っていき、大人になる前にゼロになる。だがそれでも、ハタチのうちならまだ米津玄師や東野圭吾、スティーブ・ジョブズになる可能性も残っている。あるいはそこまで大物にならなくても、コンサルタントや弁護士、大手企業の役員を目指すことはできる。

30代や40代になったら、それももう現実的ではなくなる。まだレイ・クロックやカーネルサンダースの道もあるが、可能性としてはかなり低い。成功しなかった。努力しなかった。自分にはもう可能性が残っていない。そんな想いを噛み締めながら、大人は人生の残りを消化試合のような気分で過ごす羽目になる。

どうせもう大谷翔平になれないのなら、今から野球を練習する理由がどこにある? 東野圭吾になれないのなら、小説を書く理由がどこにある?

そんな風に感じる大人は、まだ大谷翔平になれる可能性が残っている子どもを羨望混じりの目で見つめる。彼の可能性は無限大であるように感じる。大人は競走馬であることを諦めて、馬券を買ってくしゃくしゃになるまで握り込む。

そして大人は言う。「子どもを大切に育てよう。可能性を広げる教育をしよう」と。なぜなら、彼がまだ大谷翔平になれる可能性があるからだ。

今から野球を習わせれば、大谷翔平になれるかもしれない。今からひらがなを覚えさせれば、東野圭吾になれるかもしれない。今からギターを習わせれば米津玄師になれるかもしれない。今からプログラミングを習わせればスティーブ・ジョブズになれるかもしれない。でも、それだけだと可能性が低すぎるから英語も勉強させておこう。今からやれば英語がペラペラになって外資系のコンサルタントになれるかもしれない。

でも本当に僕たちは、可能性だけに価値を感じているのだろうか?

僕が大学生のとき、引っ越しを理由にバイト先のトンカツ屋を辞めることになった。店長は渋々ながら納得してこう言った。「もうすぐお前は辞めるけれど、ずっと続けるものだと思って教えるからな」と。

この言葉は僕の中でずっと引っかかっていた。僕はもうバイトリーダーになる可能性を閉ざされた人間なのに、なぜそんなことをするのだろう?と。

今ならその理由がわかる。店長は僕の可能性を大切にしていたのではなかった。僕を大切にしていたし、僕にトンカツの揚げ方を教える時間を大切にしていたのだ。

成功の可能性に賭けてbetするのではなく、単に目の前にある経験を、目の前にいる人を、目の前にある世界を味わい尽くす。僕たちの人生はそれだけで満ち足りるのだということを、きっとあの店長は理解していた。

未来を見つめすぎると今を見失う。みんなが知っていて、誰も知らない。でも本当は知っている。誰もが今に夢中になれることを。

大人であるとか、子どもであるとか。そこに違いはない。明日死ぬ人がバイオリンを始めたっていいはずだ。

可能性なんていらない。今があれば十分だ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!