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ゲームとアンチワーク哲学

ゲームの何が面白いって、きっと自分が成長できることだと思う。

人間というか生き物は、世界に何らかの変化を起こすことと、変化を起こす能力が向上していることに快感を覚える性質を持っている。変化を起こす能力の向上のために、人は道具を発明したり、自転車を練習したり、他人を手足の如くこきつかったりするわけだ。そして、変化を起こすことや、能力向上を疑似的に体験させてくれるのがゲームなのだろう。

そう考えればウメハラの名言にも納得できる。

『ゲームに飽きた』って言うんですけど、これは違うんですよ。ゲームに飽きたんじゃない、成長しないことに飽きたんです」
「やってることが一緒だからゲームがつまらないってことにしてるんだけど、問題なのは成長していない自分のほう」

思い返せば、僕がゲームに手放すタイミングはだいたい3つある。1つは開始数時間、ゲームの勝手が掴めずに飽きるのだ。これはギター初心者の大半が1回挫折を味わうのと似ている。

2つ目はある程度なれてきてから、作業感、やらされ感を味わい始めたときである。これはウメハラ曰く、成長しないことに飽きているフェーズだろう。これは自己責任だと考えることもできるが、別に成長しないなら投げ出す自由も僕たちにはある。それに成長する価値のないゲームだと感じさせたなら、ゲーム会社の問題でもある。

3つ目はやり切った感を感じたときだ。自分の中のゴールに到達した瞬間と言っていい。飽きたわけでもなく、挫折したわけでもなく、ゴールだ。同じゲームを永遠にやり続けることもある意味不健康だし、世界には他にももっと面白い体験が待っている。そのためどこかでゴールがあった方が嬉しい。

となると面白いゲームの条件は、勝手を掴めず飽きられることないような親切設計がされていて、作業間ややらされ感がなく成長を味わえて、どこかに納得できるゴールが設定されていることだろうか。言うは易し行うは難しではあるものの、ゲームを作るときは肝に銘じておこう(ゲームはいつか作ってみたいのである)。

そしてこれはゲームに限らず、あらゆる活動に言えることかもしれない。料理でも、楽器でも、スポーツでも、初めに勝手が掴めるようになるまではつまらないし、やらされ感が出てくるとつまらない。自分の能力が発揮されていることを確信し、自分の能力を成長させてくれるちょうどいい壁があると面白い。そして小休止できるゴールも欲しい。

これを自分の意志で、自分の采配でできるとき、人間というか生き物にとってのこの上ない快感だろう。ニーチェが権力への意志と呼んだのは、おそらくこれである。この体験を繰り返すような人生が、きっと楽しい。

そして、それこそが労働なき世界である。労働がなくなれば、誰もが怠惰にNetflixを観るしかなくなるというのは、ありがちな批判だが、人間にとっての極上の快楽は自分の意志で壁を乗り越えていき、能力を拡張し、世界に意味のある変化を与えることにある。ぼーっとNetflixを観ていてもしばらくすれば飽きるだろう。なにかとんでもない科学的発見やイノベーションは労働なき世界でこそ生じるはずだ。

話が壮大になってきたが、ここまでにしておこう。人間がゲームを楽しめるというのはある意味で幸運なことだ。人間はとことん意思決定と、世界へと影響を与えることと、自己成長を望むことが明るみに出されるのだから。

労働なき世界は、目の前にありそうだ。


■おまけ(ゲーム感想)

最近はよくゲームをやっているが、あまり感想を書いてこなかった。なんというか1本の記事に仕上げるのが億劫でやってなかったのだ。とは言え、ざっくりした感想くらいは書きたいので、羅列しておく。

・Frostpunk

突然の氷河期がやってきて、街を離れコミュニティを築いた人々のリーダーとなって、食糧生産や建設、医療、介護、石炭採掘、宗教、警察などの采配を振るうゲーム。

やっていて思ったことは、僕はシミュレーションゲームが向いていない。スタート段階で80人ほどの団体な訳だが、彼らが僕の一存で決定した法律に従い、僕の命令のままに働き、細やかな意思決定についてもいちいち僕にお伺いを立ててくるのだ。うざったくて仕方がない。なぜ僕が法務省と農林水産省と国土交通省と経済産業省と厚生労働省すべてを1人が担う完全なる中央集権的独裁をやらなければならないのか? 人々は単にバロメーター化された不満によって稀にクーデターを起こすだけの愚かなマリオネットなのか? ボトムアップ型の方が上手く機能するのではないか? せめて1人に集めるのではなく数人で行政機能を分散した方がいいのではないか? と僕はゲームの前提に疑問を抱かずにはいられなかった。

おまけに、リソースが足りずに人々が死に絶えているときに宗教施設を作らなければならなかったり、人々の労働を監視する監視塔を作らなければならなかったり、明らかに馬鹿馬鹿しい選択を強いられ、かつそれを人々が受け入れているのだ。神に祈ってる場合じゃないだろ?とか、監視塔なんか作る暇あったら暖房作れよ!と思わないプレーヤーはいるのだろうか?

トップダウンの馬鹿馬鹿しさを痛感できるゲームだった。そして何より難しかったので5時間くらいやって投げ出した。


・Slay the Spire

デッキ構築型ローグライクゲームの走りらしい。デッキ構築型ローグライクってなんなのかよくわかっていないのだけれど、なんか言いたくなる単語だ。デッキ構築型ローグライク。

まぁ要するに周回前提で1周あたりは1~2時間くらいだろうか。デッキを作りながらマップを進み、負けたら最初から。さくさくPDCAを回すタイプのゲームだ。ついつい面白くて何周かやった。

上手くデッキが周り始めたときは脳汁が出まくる。ラスボスをノーダメで倒したときの僕はおそらく薬物検査に引っかかっただろう。しかし、だんだんスランプに陥って飽きた。そして投げ出した。


・WILD HEARTS

ただのモンハンである。協力してモンスターを狩る。以上。僕はモンハンファンなので、普通にモンハンの新作だと思ってプレイした。友達とやるとなお面白い。


・サイバーパンク2077 仮初の自由

2020年にゲーム界を色んな意味で騒がせたモンスタータイトル『サイバーパンク2077』。企業が支配するサイバネティクスなテクノロジーが発達したナイトシティを舞台に、傭兵Vがオープンワールドゲーにありがちな安請負を繰り返していくゲーム。その大型アップデートである。

サイバーパンク自体が久々だったので2年ぶりくらいにギャングとジャンキーがうろつき回るナイトシティに降り立ったわけだが、さながら実家に帰ってきたような安心感があった。改めて元のストーリーもこなしつつ、大型アップデート部分も攻略。

これまでの物語とは毛色が違い、スパイ色の強いもので、新合衆国と呼ばれる政府とドッグタウンというスラムの狭間で騙し騙される(主に騙される)話だ。どいつもこいつも主人公Vを利用しようと陰謀を張り巡らせてくるのだが、僕はパターナリズム感の強いマッチョな黒人の軍人リードは何となく信用できなかったので、生き残るために触れるもの皆騙し傷つけるか弱きジャックナイフであるソングバードを助ける道を選んだ。

人に騙されることって、意外と腹が立たないのだなぁと気づく。なんというか、支配される方が嫌だ。これは僕の感想なのかもしれないが、みんなどんなふうにプレイしたのだろうか?


・スイカゲーム

言わずと知れたクソゲー。時間が溶けてなくなったので、制作会社に対して集団訴訟を考えている。賛同する方はDMを。


・Horizon Zero Dawn

2017年発売の少し古いゲームだが、今やっても全く品質に問題を感じさせない全部盛りオープンワールドゲームである。戦闘も面白いし、システムも面白い。

しかし、なんだろう好きになれなかった。上場企業勤務でイケメン、高身長、年収1000万円の男性と食事を共にするような気分かもしれない。燃え上がるような恋ができない。

何よりキャラに魅力を感じなかった。主人公のアーロイは典型的なホラー映画に登場するママ主人公のような存在で、ほどほどにマッチョ(性格的)で、ほどほどにジョークを飛ばす。要するに毒にも薬にもならないのだ。

育ての親や数少ない友達が殺されてもあっさり切り替え、そのくせ淡々と復讐に乗りだす。周りの人々も似たようなもので、なんというか煮えたぎる情熱のようなものを持った人物がいないのだ。

そして世界観も、ポストアポカリプス後に前世代の機械が跋扈する中で、狩猟採集民のような人々が部族抗争に燃えているような世界なのだが、いまいちピンとこない。ワクワクさせてくれないのだ。そろそろ投げ出そうかと思っている頃合いである。というか投げ出した。総プレイ時間は10時間ほどか。


・Observer

昨日始めたばかりのゲームだ。サイバーパンクホラーの最高峰らしいが、サイバーパンクホラーを名乗るゲームを他に知らないので、そりゃあ最高峰だろう。

世界観はジョージ・オーウェルの『1984年』と『サイバーパンク2077』を足して2で割ったようなものだが、そこで展開される物語はまだまだ何とも言えない。ともかく世界そのものに狂気を感じずにはいられない。そして、開始2時間ほどだが、意外とホラーでびびっている。

名作の予感はしている。が、何とも言えない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!