「アホでもわかるように」

1つの文章に文句をつけるには、1000の方法がある。だからといって、その文章に価値がないことにはならない。

文句というのは、思いついたら言いたくなるのが人間の本能であって、目の前にじゃがりこがあればポリポリと貪りたくなるのと同じだ。

じゃがりこを貪って満たされるのは食欲だが、文句を貪って満たされるのは権力欲と自己顕示欲だ。

食欲には大義名分は与えられないが、権力欲と自己顕示欲には簡単に与えられる。罪悪感なく満たせる欲望というのは、人間を堕落させる。

文章を書く仕事をしていると、そのことを痛感する。説得力のある文句も稀にあるが、たいていは欲を満たすための文句だと感じる。

よくある文句はこうだ。

うーん、私は理解できるけど、わかりにくいなぁ。もっとアホでもわかるように書いて欲しい。

僕は思うわけだ。お前が理解できるなら大丈夫だよ。

僕から言わせれば、こういうことを言う人は別に賢くない。というかアホだ。

ダニング=クルーガー効果といういい感じの心理用語が説明してくれている通り、アホというのは自分を実態以上に賢いとみなしがちだ。

自分を賢いとみなすということは、他人を不当にアホだとみなすということだ。

つまり、アホが想定するアホとは、この世に存在するかどうかも怪しいレベルのポンコツである。

というかたぶん、ほぼ存在しない。

つまりアホは、存在しないポンコツに向けて文章を書けと言っているのだ。結果はお察し。

アホには色々な定義があって、それを一致させようとすると議論は尽きない。僕なりのアホの定義はこうだ。

他人をアホと呼ぶが、なぜアホがその思考に至ったか説明できない人。

つまりこういう人だ。

「あの新人、ほんっまアホやわぁ‥、なんであんなミスするねん!! コレはやったらあかんっていうのが、わからへんねやろなぁ‥常識がなさすぎるし、甘やかされて育ったんやろなぁ‥」

これは説明になっているようで、説明になっていない。たいていの人は常識があるし、この人が言う意味でのアホではない。

目的のために行動するのは簡単だけど、誰かの思惑通りに動こうとすると人はポンコツになりがちだ。なぜなら、目的のための行動には無数のパターンがあり、そこからより良いものを自由に選択できるが、誰かの思惑はひとつかふたつしかなく、当てずっぽうにならざるを得ない。それが的外れに感じても「何か理由があるのかもしれない‥」と納得して、結果的外れな行動を取ることになる。

この新人はたぶんそういう状況に陥ったため、ポンコツになったという風に説明できる。

僕はこのように説明できるので、僕が言う意味でのアホではない。これができなければアホだ。

つまり、僕が言う意味のアホは、他人がアホであり、合理的な判断ができないと考えている。他人の思考パターンに想像が及ばないのだ。

賢いという言葉にも多様な定義があるわけだが、賢い人は「さまざまな可能性や、考え方、思考パターンに思い至ることができる」という点には異論がないと思う。

なら、その反対はアホだ。アホは、なぜ他人がアホなのかを説明できないから、アホなのだ。

話があっちこっち行ったが、僕が言いたいのは、他人をアホだと言う奴がアホだということだ。これはブーメランなのだが、まぁ僕はセーフということで。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!