いじめorイジり問題を、さっさと終わらせよう

それがいじめなのか、イジりなのかについての議論に、人類は膨大な時間を浪費してきた。そして、合意を得ることはほとんどなかった。

もし仮に「いじめ判定機」が発明されたとすれば、この議論には決着が着くだろう。しかし、「いじめ判定機」の存在は、それ自体が究極のいじめと呼ぶほかない。

なぜなら「あなたは泣いて悲しんでいるが、それはいじめではなくイジリだ。つまり、あなたが泣いていることは不当であり、被害妄想である」と判定されてしまうからだ。

そうなれば、その人物は救済に値しないということになる。苦しんでいるのは自己責任。なぜなら、いじめではなくイジりだから‥というわけだ。

「あの子、イジりであんなに泣いて‥みっともないわね(笑)」なんて陰口を叩かれることもあるだろう。その末に自殺したとしても、周囲に何ら責任はない。なぜなら、イジりだから。

いじめとイジりを判定しようとすれば、こんな馬鹿げた事態に陥らざるを得ない。

もちろん、いじめ判定機が発明される見込みはない。いじめとは日本国や国連憲章、就業規則と同じような神話であり、それがいじめかどうかを判断する客観的な基準は存在しない。ただただ、「これはいじめである」という解釈と合意のみが存在する。

つまり、判定しようとする試みは無意味だし、判定できたとしても馬鹿げた事態に陥る。

そんなことよりももっとやるべきことがあるだろう。

少なくとも「悲しむ人は少ない方がいい」という点は、誰しも同意するはずだ。だったら、そこに悲しみがあるなら、手を差し伸べればいい。誰の責任であろうが、どうだっていい。

もちろん、他に優先すべき用事があるなら差し伸べなければいい。全ての人を救うことは不可能なのだから。

できることをやる。無駄な議論に時間を使わない。それだけ。

この前、オフィスでいじめorイジり問題について、議論がかわされているのを耳にした。

「本人がいじめだと思ったら、いじめなんですかねぇ?」
「でも、それ言い出したら、キリないですからねぇ…」

この会話、おそらく日本中で100万回は行われてきたことだろう。

むろん、僕が言っていることも社会構成主義的な文脈で、しょっちゅう指摘されていることだ。それでも、この議論をいじめorイジり問題に適用されている場面は見たことがない。

適用させれば、議論を終わらせることができる。さらに横展開していけば「セクハラか、そうでないか?」「パワハラか、そうでないか?」といった無意味な議論も封殺できる。

終わらせよう。議論に意味はないのさ。


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