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常識の構造

「常識を疑うこと」は、ほぼ例外なく良いことだとされている。「常識を疑うことは、良いこと」というのは、もはや常識だ

では僕はここで、さらにその常識を疑ってみるとしよう。

「常識を疑え!」という信念は根強いにもかかわらず、それが実行されているようには見えない。僕が常識外れの発言(例えば、世界中から管理職を撲滅すべきとか、刑務所に入ってみたいとか、日本には年功序列の会社は存在しないとか)をすれば、頭のおかしい奴とか、あまりにも子供じみていて社会の仕組みが理解できていない奴という扱いを受ける(その場が「常識を疑え!」という信念を掲げている集会であるにもかかわらず!)。

なぜだろうか?

原因は、この文脈における「常識」が一体何を指しているのか、誰も理解していないことにあると、僕は考える。

少し時間をかけて、分析してみよう。


常識は、2種類に分けられる

1つ目は、「世間一般の人が信じているであろうと想定される信念や考え方」だ。「常識」という言葉は、こちらの意味で使用されることが多い。

これを僕は「公常識」と呼びたい。

注意しなければならないのは、公常識は常に個人の想像上のものでしかないということだ。

社会の構成員全員に対してアンケートを取ることは不可能だし、何%以上で意見が共通していれば「常識」とみなせるのかという点について合意を得ることもできない(もし得ようとすれば、その合意には何%以上の合意が必要なのか、と無限に退行していく)。

つまり、特定の個人が「みんなはこう考えているはず」と、勝手に想像するものが、公常識なのだ。

僕とあなたの公常識は、ジャンルによって一致するものもあれば、異なるものもある。しかし、常にほぼ全員に一致しているものであると、各個人の中では想定されている(なぜなら、それこそが常識の定義だからだ)。

勘違いしてはならない点は、これは法律や成文律とは異なるという点だ。

法定速度を考えればわかりやすい。40キロ制限の道は、法律上では40キロ以下で走ることが求められているが、これは僕の公常識には反する。40キロ制限の道では、50キロ程度で走るべきだと、僕の公常識は告げている。あなたも似たような(それでいて微妙に食い違う)公常識を思い描くのではないだろうか? 

このように、法やルールを守るか守らないか? またはどの程度なら破って良いのか? といったことは、成文律ではなく、個人個人の心の中にある不文律(≒公常識)によって判断される。


2つ目の常識は、「私は、これが正しいと感じているという信念や考え方」だ。これを僕は「私常識」と呼ぶ。

私常識は公常識と一致する場合もあれば、異なる場合もある。

一致している場合は、話は簡単だ。僕は「ウンコを食うやつは頭がおかしい」は公常識であると感じているが、同時に私常識としても認識している。

しかし、公常識と異なる私常識もたくさん持っている。

例えば、僕は「日本の会社は年功序列」という考えは公常識であると思っている。それに対して僕は「日本には年功序列の会社は存在しない」という私常識を抱いている。

当然これは絶対的な真理ではない。僕の私常識が間違っているという可能性も十分にありうる。しかし、僕はあたかも、自分の私常識は絶対的な真理であると感じて生きている。

これは僕以外も同様なはずだ。なぜなら、自分の信念を疑い始めれば、何一つ身動きができなくなるからだ(その気になれば「我思う、ゆえに我あり」だって疑うことができる)。

だから、疑いの余地があるものであっても、私常識が真理であると仮定して振る舞わなければ、人間は生きていけない。そして「仮定する」と「信じる」の境界線は常に「信じる」の側に退行していき、いつしか私たちはそれを本当に真理であると感じてしまう(お金は価値があるということが真理であると感じているように)。

公常識と私常識、混同されているが、明らかに両者は異なる。一般に「常識」というと公常識を指している場合が多い。そして、私常識は真理であると考えられることが多く、それは「常識」とは別のものであると考えられる傾向にある。

さて、これを理解した上で、冒頭のテーマに戻ろう。


「常識を疑え!」の常識はどちらなのか?

結論を言うと、これは明らかに公常識を指している。つまり、「常識を疑え!」と発言している本人が考える「みんなはこう考えている!」という常識を疑うべきだと言っているのだ。

そしておそらくこの場合は、発言者の公常識と私常識が異なるシチュエーションにある

つまり発言者は、自分は公常識を疑った結果、私常識という真理にたどり着いたと想定していて、「みんなも早く常識(=公常識)を疑って、私のたどり着いた真理(=私常識)に到達すべき」だと感じているのだ。

そして、決して発言者が抱く私常識が疑われることはない。なぜなら、私常識とは、その人にとっての絶対的な信念であり、それを疑うということは、自己を否定するにも等しい行為だからだ。

それにもかかわらず、発言者は「自分は過去に自分の信念(=私常識)を否定して、ここにたどり着いた」という自負がある。これが真実であるかどうかは怪しい。

公常識と異なる私常識を抱くためには、必ずしも過去の自分の信念を否定する必要はない。「愚者が信じている公常識を受け入れることなく、真理(=私常識)にたどり着いた自己」をイメージすれば、「自分は常識を疑っている」という自己イメージを獲得することができるからだ。


鍵となるのは、空想上の愚者

ここには明らかに「根拠のない公常識に囚われている愚者の集団」と「公常識を疑うことで、真理(=私常識)へと到達した賢い私」という対比が想定されている。

しかし、ここでの愚者は実在する必要はない。そして、大抵、現実世界には存在していないように見える。

この前、次のように話す人(仮にAさんとしよう)と出会った。

「日本ではまだまだ年功序列が当たり前だと考えられているが、これからは実力主義の時代だ」

整理すると、この人にとっては「年功序列が当たり前」が公常識であり、「これからは実力主義の時代」が私常識ということになる。

では、「年功序列が当たり前」と考えている人は、社会にどれくらいいるのだろうか?

僕は職業柄、年に100社以上の会社に取材しているが、僕は年功序列を当たり前だと考えている人に出会ったことがないし、大手・中小を問わず年功序列を自認する企業に出会ったことがない

どこの企業も口を揃えて「うちは、賞与や昇給、インセンティブで、ちゃんと頑張った人を評価しています」と言う。

そして、不思議なことにそれらの人たちは「日本ではまだまだ年功序列が当たり前だと考えられているが、これからは実力主義の時代だ」と、Aさんと似たようなことを言うのだ。

つまり(僕のリサーチが正しいとすれば)、多くの人や企業は「実力主義の時代だ」と言っているのだ。一般的な常識の定義からすれば、「実力主義は常識」だと言って差し支えないと思うが、実力主義は常識とは誰も思っていない(少なくともAさんは思っていない)。


第3の常識

つまり、「年功序列が当たり前」というほとんど存在が認められない公常識を愚かにも信じる愚者の集団を想定した上で、それを否定し「これからは実力主義の時代」という私常識へと独自にたどり着いたと自認する人々が、膨大に存在すると考えられる。

ここまで議論を進めて、第3の常識を定義した方が有意義であるように感じた。

この膨大な人々の倒錯した常識意識のことを「優越常識」とでも名付けようか。

「優越常識」とは、膨大な人たちによって共有されている、否定するためだけにでっち上げられた架空の公常識と、それを超越する新しい真理を生み出したという優越感を伴っているにもかかわらず陳腐な一般論である私常識の集合体だ。

もちろん、優越常識もあくまで僕の想像上のものには変わりないのだが、名付けるに値するくらい、普遍的な現象であるように思う。

まだまだ、しっくりこない人もいると思うので、別の具体例で説明しよう。

例えば、コロナ禍で「マスクとトイレットペーパーは原材料が同じだから、トイレットペーパーが不足する」というデマが広まったのを覚えているだろうか。

思い出して欲しいのだが、デマが広がったと同時に、「これはデマである」と言う情報も広まった。しかし、それにもかかわらずトイレットペーパーの買い占めはなくならなかった。

これを3種類の常識に当てはめてみよう。

まず、おそらく多くの人が想定する公常識は、「マスクとトイレットペーパーの原材料は同じ」というもの。つまり「他の人はデマを信じているだろう」と想定したのだ。

そして、私常識は「それはデマである」というもの。私は情報リテラシーが高いため、デマには流されないというわけだ。

ここでの優越常識とは、「私だけはデマには流されないが、多くの人はそれを信じてしまうだろう」という考えだ。これが多くの人が共有する優越常識となったため、「私は信じていないけど、買い占めなきゃ!」という人が続出しているというわけだ。

※これは正直、説明のために事実を簡略化した。実際のところは、メタ的な行動をとった人も多いと思う。誰もデマを信じていないことは知っているが、デマを信じていない人を信じる人や「念のために買い占めよう」と言う人がいれば買い占めは現実に起きてしまうため、自分も買い占めた方がいい、というわけだ。


ありふれている優越常識

他にも具体例は思い浮かぶだろうか? 

例えば、「無駄な会議は必要ない」みたいな考え方も、優越常識の変種だと僕は考える。

「日本人は、無駄な会議が大好きやからなぁ」と口にする人は無数に存在するが、自分が主催する会議が無駄だと感じている人はおそらくほぼいない

これも、「無駄な会議を開きがちな人々」という愚者の公常識を想定した上で、「無駄な会議を見極め、それを中止する判断力を持つ私」という私常識を真理だと判断するという、優越常識的な構造が見られる。

さて、ここで一つの疑問が生まれる。


なぜ、優越常識が生まれるのか?

僕なりの回答はこうだ。

自分のことを愚かとか、非合理的だと考えることは、ほとんど不可能だ。なぜなら、外側から見れば馬鹿げた言動であっても、本人にとっては正当化することができるからだ(後から振り返れば馬鹿な言動であっても「その時の状況では仕方がなかったため合理的だ」と考えるだろう)。

そのため、私常識とは常に真理ということになり、それを曲げることはできない。

私常識が公常識と一致すれば何事も起きないが、公常識と異なる場合、「公常識が間違っていて、私常識が正しい」と考えるのは、当然だろう。

しかし、まだ疑問は残る。公常識が実際の社会にも一定数存在するものを想定している場合はいいとして、全く架空の公常識をでっち上げる理由はなんなのだろうか

これは様々な理由が考えられる。他人を見下したいという欲望なのか、「実力主義が正義とみんなが思っていても、誰も何も行動しないから」なのか、完全な実力主義など達成不可能なものを追求する以上は永遠に目的を達成できないから公常識が更新されないからなのか、恐らく様々な動機が交錯している。

僕が今書いているこの文章においても、全く架空の公常識をでっち上げている可能性も捨てきれない。本当は僕が思うような現象なんて全く起きていないにもかかわらず、他人を馬鹿にしたいがためにこんな文章を書いているかもしれないのだ。

そういえば、なぜ、僕はこんな文章を書いているのだろうか?

たぶん、他人を馬鹿にしたいのだ。そして、自分は馬鹿な奴らが気づいていない真理に到達しているのだと、誰かに自慢したいのだ。

この感情こそが、人を優越常識へと導くのだろう。

そして、僕が抱くこの考えも、もしかすれば陳腐で有り触れた常識であって、賢い人たちがとっくの昔に検討して、棄却済みのものなのかもしれない。

…なんてことを考えていれば、もはや何も言えないし、何も批判できなくなる。

少なくとも、ネット上に何らかの意見を書くということは「お前らこれに気づいていないだろ? 俺は気づいているぞ!」と言っているわけだ。別にいいか、それはそれで。


結論

「常識を疑え」と言っている人は、信用してはならない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!