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人は利己的か? 利他的か?

「人は利己的だ!」という主張が市民権を獲過ぎた結果、その逆張りとして、「いや、利他的だ!」という主張が現れた。雑にまとめれば前者が右翼で、後者が左翼ということになる。僕も左翼なのでどちらかと言えば後者のポジションを取ることが多かったのだが、とある男と関わる中でそうも簡単ではないと気付かされた。もうすぐ3歳になる息子だ。

彼は自分が大好きなアイスを喜んで人に分け与えたりする。それだけを見れば利他的に見えてくるのだが、たまに独占して全く分けてくれないこともある。僕が彼の言うことを聞かないときには、暴力を振るったりもする。せっかく妻が用意したご飯にキャベツが入っていると「おいしくない」なんてことも言う。

当たり前だが、利他的な部分も、利己的な部分も、併せ持って人は生まれる。ただ、人と生きていく中で、暴力を振るったり、作ってくれたご飯を「おいしくない」と言ったり、何かを独占したりすることは、相手にとって害があるだけでなく、仲間外れにされたり、自分が困っているときに親切にしてもらえなくなったりすることに気づく。そして、利己的な行動は自分にとっても良いことではないと学習していき、人は利他的な性格を育てていくのだと思う。

もちろん、「衣食足りて礼節を知る」という言葉の通り、例えばものすごくリソースが限られていて人を蹴落とさなければ生きていけない環境ならば、人は利己的になっていくのかもしれない。だが、極限状態であっても人と人は協力した方が望ましい結果が得られることが多いし、人以外の生き物もそうであることは、クロポトキンの『相互扶助論』に書いてあった通りだ。故に、どちらかと言えば人は利他的な性格を育てていく傾向にあるのだと思う。

「どんな風に育ってきたか次第」と安易に考えると、年齢を重ねた人はもう後戻りできないように考えてしまう。しかし、人間は何歳からでも学習できる。これまではたまたま利己的である方がいい人生だったとしても、利他的である方がメリットが大きい世界に飛び込んだら、時間はかかったとしても人は利他的になれるように思う。

タイトルの問いに戻ろう。人は利己的か? それとも利他的か? 荀子と孟子の時代から決着のつかない問いに僕なりの回答を与えるとすればこうだ。

人は生まれながらにして利己的であり、利他的だ。だが、多くの場合は利他的である方が望ましい結果が得られることに気づいて、人は利他的になっていく傾向にある。

このことを前提にすれば、社会のあり方はもっと変わる。

社会システムの根底には、「人間とはこうだ」という何らかの先入観が存在する。その先入観は必ずしも一貫しているわけではない(普通に商品を万引きをすることはいとも簡単であるにもかかわらず、セルフレジではいちいち商品の重みを計算して僕たちをイライラさせるなど)が、やはり人は利己的であることを前提にしたシステムは多い。

他人は利己的であることを前提にしたシステムは端的に効率が悪い。全ての家の周りに有刺鉄線が張り巡らされるような街は最悪だし、社員のパソコンの閲覧履歴を毎日チェックするのは骨が折れる。

僕は効率よくやりたい。効率よくやるにはみんなを信じればいい。万引き犯がいないことを前提にすれば、Amazon Goは要らない。無人の野菜販売所でいいのだ。

効率よくやろう。だって僕たちは利他的なんだもの。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!