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支配欲とアンチワーク哲学

勘違いされることが多いのだが、アンチワーク哲学と称して、「人は貢献することを欲望するから、欲望を解放しなければならない」とか「支配(労働)から解放されれば欲望は解放される」とかなんとか言っている僕だが、性善説を唱えているわけではない。

僕は、他者を抑えつけて支配することを人が欲望することを知っているし、それはある程度は普遍的な欲望であると知っている。実際、その欲望が現代の支配システムを生み出してきた。

あらゆる欲望を徹底的に肯定しながら、支配からの解放を謳うアンチワーク哲学はここで矛盾に突き当たっているように見える。支配という欲望が満たされるなら、一定数は被支配者の存在が必要なのではないか? 支配欲は誰かの欲望が挫かれることを前提としたゼロサムゲームを生み出すのではないか?というわけだ。

実のところこれは矛盾ではない。支配という欲望が満たされる前提には、支配される側が逃げられない状況が必要となる。逆に逃げられる状況であったなら、理不尽な暴君の前には誰もいなくなるのは目に見えている。

現代の社会でもパワハラ上司から逃れて転職することは可能だ。しかし、転職先が見つかるとは限らないこと、生活が不安定になる可能性が高いこと、家族が路頭に迷うリスクを考えれば、おいそれと逃げ出せないのが普通である。

だからこそ、労働という名の支配が成立している。

アンチワーク哲学がやたらとベーシック・インカムを推進するのはそこに理由がある。BIがあるならば、おいそれと逃げ出せるようになる。

あるいは逃げ出さないとしても、クビを恐れずに反抗したり、議論したりすることが可能になる。最終手段として「逃げる」という選択肢を持っている人を理不尽な理屈で丸め込んだり、完全に言いなりにしたりすることはできない。

つまり、BIは支配欲という欲望を挫くことになる。それはアンチワーク哲学の「欲望の肯定」「欲望の解放」という方針と矛盾しない。当たり前だが、欲望を肯定することと、全ての欲望を満たすことは同じではないのだ。

人の欲望はあらゆる方向に向けられていて、100%満たされることはない。どれだけ自由な社会であっても、光速で移動したいという欲望が満たされることはない。ただし、自由な社会であれば光速で移動したいという欲望に向かって行為することは可能である。

欲望には壁があり、それを乗り越える工程すらも人は欲望する。しかし欲望はときに壁の前で立ち尽くす。そのとき人は諦めずに粘るか、あっさりと別の欲望に取り組むのかを選択することとなる。

支配欲はBIが実現した社会の前で立ち尽くすこととなる。パワハラ上司はそこで諦めずに支配を欲望することも可能だが、レンコンの収穫を欲望することも可能である。

現代の社会でパワハラ上司が欲望を満たせる瞬間は他者の支配くらいなのだ。自らの裁量で自由に行為して世界に影響を与えるというプロセスを奪われた職場において、唯一許された自由に世界へ影響を与える行為は他者の支配である。だからこそ人はこれほどまでに権力を求めている。しかし、パワハラ上司すらもある意味で支配以外の欲望を抑えつけられた被害者なのだ。今さら支配という生き方を変えるには苦渋の決断が必要かもしれないが、それでも他の欲望に目を向ける自由は彼にも与えられる。

世界が狭い水槽であったなら支配する人と欲望をくじかれる人のゼロサムゲームは避けられない。しかし、世界が自由な大海であったなら支配という欲望に邁進する人は自然と減っていくと考えられる。支配に付き合ってくれる人がいないだけではなく、もっと他に面白いことが他にあるのだから。

その変化はもしかするとBI導入から数世代かかるかもしれない。しかし、遅かれ早かれ訪れる変化であると僕は楽観視している。

アンチワーク哲学は一見するとツッコミどころ満載のように見えるだろう。しかし僕は少し考えただけで思いつくような批判には全て答えられる堅牢な哲学体系を築き上げたという自負がある。なんと言っても僕はアンチワーク哲学について数百時間は考察しているのだ(たぶん)。誰かが即座に思いつくような批判は僕だって思いつく。それでもなお僕は自信満々にアンチワーク哲学を語っているのだ。

もちろん、これは絶対的な自信ではない。どこかに穴があるのではないかという不安は常に付き纏っている。だからこそ、こうやってせっせと耐震補強工事のような記事を書いているわけだ。

次はどこを工事しようかしら。

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