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頼むから誰かアドバイスさせてくれ

「知識人」とか「知の巨人」と呼ばれるのは、さぞ気持ちが良いんだろうなぁと思う。「僕はどんな風に生きるべきですか?」「これからの時代にどんなスキルを身につけるべきですか?」なんてYouTubeのライブ配信やインタビューで尋ねられ、適当に答えれば、キラキラした目で「うんうん」と頷かれる。

愚民たちのちっぽけな悩みがあら不思議! 自分の天才的なアドバイスによって綺麗さっぱり解決されてしまう。そんな経験は知の巨人でもない限りはなかなかできない。

そのくせ僕たち凡人はついつい知の巨人を気取って、悩んでいる人や悩んですらない人にあれこれとアドバイスをしたがる。僕もこの前、ついついやってしまった。

大抵、凡人によるアドバイスは、当事者である本人はとっくに検討済みであり、その上で既に却下されているケースが多い。そのくせ、あたかも本人はそれを思いつかなかったかのように、僕たちはアドバイスするのだ。

恐らく他人の頭の中や、他人の人生はそんなに単純ではなく、何か1つのアドバイスで解決することはない。そのため「そうは言ってもねぇ‥」という反応以外、何も引き出せないことが普通である。

ではなぜ、知の巨人のアドバイスはキラキラした目で頷かれ、僕たちのアドバイスはそうならないのか?

知の巨人のアドバイスは高度であり、僕たちのアドバイスは陳腐であるという可能性もないこともないが、それだけでは説明がつかないことの方が多い。説得力とは権威に由来するものだと考えた方が僕たちの日常的な感覚に一致する。(カズオ・イシグロの『日の名残り』という小説ではただの屋敷の召使いである主人公を、地方の名士であると観衆が勝手に勘違いして、有難く話を聞くシーンがあった)。

普通、わざわざ凡人にアドバイスを求めようとは思わない。権威ある人物なら、何かしらの解決策を持っているのではないかと錯覚させられてしまう(たいてい、権威ある人物も、大したアドバイスができないことの方が多いが)。だからアドバイスを求める。求めてしまった以上、そこに何か重要な内容が含まれるはずだという期待が生まれる‥そんなメカニズムが働いているのだろう。

残念ながら、僕には権威がない。それでもアドバイスしたいという欲求はなくならない。ならば、アドバイスを求めるという行為は、実は人助けになるのかもしれない。欲求を満たす機会を提供することになるからだ。

この記事を読んでいるそこのあなた。何か悩んでいることがあるなら、ぜひ僕にアドバイスを求めて欲しい。僕のアドバイスによってあなたの状況が好転することはまずあり得ないが、僕はアドバイスをするだけで満足できるのだ。

だから人助けのつもりで、アドバイスを求めてほしい。頼みます‥。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!