見出し画像

敬語とタメ口のあいだ

僕の会社の先輩は、致命的なミスを犯した。

彼は僕より年齢は10個ほど上。社歴も4年ほど上。それにもかかわらず、あろうことか、僕と初めて話すとき、敬語からスタートしてしまった。

「ホモネーモさん。この作業なのですが、〇〇で、〇〇しといてください」
「こっちの作業やっておくので、ホモネーモさんは品出し入ってもらって大丈夫です」

彼は僕を除けば一番下っ端だ。そのため骨の髄まで敬語根性が染み付いていて、タメ口を話す身体機能が錆び付いてしまっていたのかもしれない。

誰もが知るように、一度、敬語で始まった関係性をタメ口に切り替えることは、千尋の谷の向こう側を目指すような、命懸けの飛躍が必要だ。普通なら、そんな危険を犯すことはない。

しかし、彼は飛ぼうとした。

彼は焦燥感に駆られていた。せっかく現れた後輩なのだ。自分の威厳を示し、職場でのポジションを確立するには、タメ口しかない。だが、この先、タメ口に切り替える自然なタイミングなど訪れることはない。むしろ時間が経つほどに、切り替えの不自然さは際立っていく。

ならば、今しかない。

視線は、崖の向こう側にある「タメ口」というゴールテープ。慎重に距離を取り、息を呑む。脈打つ鼓動を感じながら、心の中でカウントを取る。

‥今だ!


タタタタタタタタ‥グッ‥‥ッターン!!


‥‥‥


「ホ、ホモネーモさんあのさぁ。トラック使ったのホモネーモさんやんなぁ? 半ドアになってたから、次からちゃんと勢いつけて閉めてな?」


‥‥


彼の飛躍の結果はいかに?


それは、彼の翌日の話ぶりを見るだけで理解できた。


「あ、おはようございます。ホモネーモさん。今朝の作業なのですが、まずはこの商品からお願いします」


彼の飛躍は、向こう岸へと届かなかった。


そして、敗軍の兵として、敬語へと舞い戻ってきた。勢いが足りていなかったのは、トラックのドアではなく、彼自身だった。

僕自身、不意にタメ口で話し始めた彼に対して、動揺する素振りをうまく隠せなかった。「急にタメ口なりますやん(笑)」とおちょくる言葉が喉まで出かかっていたが、命懸けの飛躍にチャレンジした戦士を侮辱するわけにもいかず、僕は必死で堪えていた。おそらくその僕の動揺を感じ取った彼は、飛躍の失敗を悟り、翌日また敬語に舞い戻ったのだろう。

ジャンプは失敗した。では彼は諦めたのだろうか?

数日の間は、僕もそう思っていた。だが違った。

彼は向こう岸へと、橋をかけようとしていた。

少し会話が盛り上がったところ。あるいは、僕がツッコミどころを用意したタイミングを慎重に見計らって、彼は少しずつ基礎工事を進める。

「いやいや、それはホモネーモさんが悪いわー!」
「今回、めっちゃいい感じやーん!」

一言や二言のステルスタメ口を張り巡らせていき、少しずつタメ口の領域を増やしていく。それが彼が次にとった戦略だ。

もちろん、本人はステルスタメ口だと思っていても、こちら側から見れば、自然な移行を演出しようとする人工的な意図は見え透いていることの方が多い。

しかし僕はそのことに気づかないふりをする。これからもそうだろう。

先輩は僕が気づいていることに、気づいているかもしれない。だが、「気づいていることに気づいていること」に、気づかないふりをするだろう。

さて、彼の戦略は身を結ぶのだろうか。


その結果がどうあれ、もしかすると数年後、彼と2人きりで居酒屋に行くようなことがあったならば、僕はビールを一杯飲んだ後、「あのとき、敬語からタメ口に移行しようとしたでしょ?」と、尋ねるかもしれない。

居酒屋は、カンフー映画のエンドロールに似ている。普段の日常がまるで映画の世界であったかのように、一歩引いた目線から、その本心も、失敗も、何もかもを笑いのネタにできる。

職場という劇場の上では、役者になりきっていた先輩も、きっとエンドロールでは「実はあのとき‥」と笑いながら本音を話してくれるに違いない。

その日が来るまで、僕は不器用な劇場にさんかしつづけることになる。なんだかソワソワした気分だ。

僕は、不躾に、「今日からタメ口でいくわ!」と切り替える方の戦略を薦めたい。

それは劇場の上から急に客いじりを始めるような、メタ視点を語り始めるような、枠組みから飛び出す緊張感を孕んでいる。だが、手っ取り早い。

人生は劇場であって、人は演じる。そんなことは古今東西の賢人たちが指摘してきたことだが、劇場から飛び出す勇気を持てば解決する問題は多いと思う。

空気を読みすぎるとダメなことになる。山本七平も言っていたじゃないか。

平気で空気を壊す人をソシオパスと呼ぶわけだが、別に悪いことはない。空気なんか適当に壊してみればいいさ。

そういう意味では僕があのとき「急にタメ口なりますやん(笑)」とおちょくっていれば、僕は確実にソシオパスなわけだが、彼と僕は強制的に舞台から降りて擬似的な居酒屋に移行することができたかもしれない(あるいは、全てが壊れてしまっていたかもしれないが)。

勇気が足りなかったのは僕の方だったのだろうか。それとも彼か。

わからない。


まぁ、正直、僕はその人のことがあんまり好きではないので、ぶっちゃけ仲良くなりたいとは思わない。2人で酒を飲みたいとも思わないしね。

なので、どっちでもいいわ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!