見出し画像

労働はクソなのか、クソじゃないのか【アンチワーク哲学】

こんな記事を見つけた。

ペンシルベニア大学ウォートン校(Wharton School of the University of Pennsylvania)は、最新研究で、1日の自由時間が5時間を越えると、人の幸福度は低下することを明らかにしました。

これを読んだときアンチワーク哲学の熱烈なアンチであったならこう言うかもしれない。

ほら、労働をなくす必要なんてないじゃないか?

労働をなくしたところで人は5時間以上の自由に耐えられないのだから、人が幸福にすごすためには1日の一定時間を労働に充てたほうがいいんじゃないか?というわけだ。

逆に僕ならこの記事を読んだとき、次のように言う。

ほら、労働なき世界は可能じゃないか

要するに人は、1日に19時間ほど、なんらかの習慣に服する時間や、なんらかのプロジェクトへのコミットする時間を必要とする。言い換えれば、欲望するわけだ。

だったら、人にまるっきり自由を与えたとしても、人は自発的に習慣をつくりだし、プロジェクトにコミットすると考えられる。つまり「人を労働から解放すれば自堕落な生活を送り、誰もなにも有益なプロジェクトを成し遂げなくなるだろう」という一般的な感覚は誤りである可能性が高い。「人を自由にすれば、生存に必要な食事や睡眠を取らなくなるだろう」と考えるのが誤りであるのと同じように。

なら、強制がなくとも、つまり労働がなくても、自由で自発的な行為によって社会を成立させることは可能であるように思う。それは誰もなにも強制されることなく、それでもなお人々が社会に貢献しはじめる社会である。

労働なき世界とは、なんの苦労も、努力も、葛藤も、軋轢もない世界ではない。乗り越えるに値する壁は常に存在するだろう。そうしたものがまったく存在しない人生に、人はむしろ耐えられない。さながら、『千と千尋の神隠し』の坊が閉じ込められていたキラキラのおもちゃで一杯の部屋のようなものである。坊の人生が輝き始めたのは、あの部屋から連れ出されたあとだったはずだ。

「なら労働なき社会とは、いまの社会となにが違うのか?」と感じる人もいるかもしれない。違う。

だが、厄介なのは、この世界では、人によっては労働なき世界をすでに生きているのだ。ニートに限った話ではない。会社員であろうが、自営業者であろうが、経営者であろうが、自発的で自由な行為によって有益なプロジェクトに邁進していると感じているなら、彼が会社に雇用されていようが、彼は労働していないのである。だから彼にとって、労働なき世界といまの世界の区別がつかないのである。

ただし、彼が労働から逃れているからといって、他の人が労働していないわけではない。もしかすると彼が意気揚々と指示をしている内容が、部下たちにとって死ぬほど不愉快であったとすれば、彼は彼の周囲に労働をさせているわけだ。ならば、そこは労働なき世界ではない。

もし労働がなくなったならどうか? 部下たちがいつでもその場を離れられる状況にあって、それでもなお強権的な上司と付き合い続けることを決めたることもあるだろう。そのとき、上司からの命令は不愉快なものではなくなっているはずだ。その命令に従うことを彼は納得しているのだから。それでも、違和感を抱いたなら彼は命令を拒否するかもしれないし、即座にそこを離れるかもしれない。そもそもそれだけ上司に心酔してもらうために、上司は努力を必要とするだろう。そうなったとき、もう上司は上司と呼べる存在ではなく、単なるパートナーと化す。労働なき世界の完成である。

「労働はクソ」と「労働は素晴らしい」の議論が永遠に平行線なのは、片方は労働について語っていて、片方は労働ではない行為について語っているからだ。僕が目指すのは誰一人として労働しない世界である。

労働はクソである。なぜなら乗り越えるに値しない壁を押し付けるからである。クソだと思わない人がやっているのは労働ではない。だから労働を撲滅しなければならない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!