やっぱり人に届くのはエピソードトークなんだね

‥っていうのは、noteの反響を見て感じるところだ。

なんやかんや、詩人とか語り部的な人が影響力を持つという話はいろんな本に書いてあった。まぁ、どんな本に書いてあったかという具体例はパッと思いつかない。

エピソードトークの重要性を語る文章を書こうというのに、いきなりエピソード抜きで書き始めてしまった。

これが僕の反省点だ。ついつい僕は抽象的な話をしてしまう。

自由とか、資本主義とか、そういうフワフワしたテーマについて僕はよくnoteを書いている。そういう話を人にすると、相手との共通理解がないまま、成り立っているのか成り立っていないのかよくわからない会話になりがちだ。

例えば自由について話をすれば、自由競争的な社会のことを思い浮かべる人もいれば、狩猟採集民の暮らしを思い浮かべる人もいるし、抽象的な理念として捉える人もいる。会話の歯車はガタガタと軋み始めて、それでも回り続けて、なかなか終わらない。そんな不快感を味わうことはよくある。

『サピエンス全史』に書いてあった通り、僕たちはこういう現実に存在しない信念やフィクションみたいなものを信じられる(おそらく)唯一の動物だ。

それでも、やっぱりフワフワした概念を明確にイメージできるほどには、僕たちは進化していないのかもしれない。リンゴやバナナと比べて、自由とはなんとわかりにくいことか。

最も成功したフィクションはお金だろうか。お金はちゃんと物神として現れてくれているので、信じやすい。それでも、「金の裏付けがない不換紙幣はうんたら」と文句をつける人も稀にいる(じゃあ、金の価値は一体何に裏付けられているんだろうか?)。

また話が抽象化してきた。だが、続けよう。

最近ヘーゲルの『精神現象学』を読み始めた。ヘーゲルは、愚直な進歩史観に引き摺られた古臭い堅物のおじさん扱いを受けることが多い印象があるが、結構面白く読める。ヘーゲルはいわゆる言葉に依らない宗教的な直観を盲信する人々(言語では言い表せないものを知っている素振りをしている無常観キッズみたいな人々)に親でも殺されたのか、言語によって世界を言い表すことに固執している。

言語のような概念がなければ人間の理解力が及ばないということは、僕が昨今注目している構成主義的情動理論が指摘しているわけだが、そういう意味ではヘーゲルのやろうとしていることは無駄な努力ではない。言語を発明して、言い表せる領域を拡大していけばいいのだから。

しかしヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と言った。ヴィトゲンシュタインの言うことにも一理ある。全てを言語で言い表すことはできない。言語は、カントのいう「物自体」の世界をそのまま指し示しているのではなく、あくまで象徴的なレイヤーで機能するものだ。メタバース上に無限に土地が作られるように、言語も無限に概念を発明できる。

では言葉をあれこれ操ったところで、なんらかの真理を指し示すことなく全く的外れな机上論を展開することにしかならないのか? そうかもしれないし、そうではないかもしれない。

最終的に、「もう、どうでもいいや」という気持ちになる。抽象的な議論はこれだから困る。そして一周回って「やっぱりエピソードトークが大事だね」という話になる。

もしかしたら宇宙の果てにいる知的生命体は、我々人間よりも、もっとフィクションを具体的にイメージできるできる能力を進化させているのかもしれない。僕たちのように「自由」のような言葉を抽象的に捉えるのではなく、明晰に語り、イメージを共有し合っているのかもしれない。きっと僕たちには理解不能な概念も、たくさん持ち合わせていることだろう。

そういえば「ありがた迷惑」という言葉は、日本に特有のものらしい。こういう言葉をたくさん発明し続ければ、解釈の粒度が高まっていき、抽象的な議論が上手になっていくのだろうか。いつかは、宇宙の果てにいる理想的知的生命体のような、抽象的な議論を明晰に行うことができるのかもしれない。

遺伝子が増殖するように、言葉でできたミームが増殖していき、人はまた進化していくのかもね。

うん。やっぱどうでもいいわ。うどん食いたい。

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