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(どうする? そろそろ革命いっとく?)【雑記】

今は毎日のように国会議事堂に火炎瓶が投げ込まれたり、岸田文雄に銃弾が撃ち込まれたり、保険会社のビルに爆弾が仕掛けられたりする時代ではない。みんなが、ちらちらと同志たちを横目で見ながら、noteやXのすみっこで資本主義や国家を批判している時代である。

批判の言葉は、やたらと威勢がいい。「声をあげよう」「批判しよう」「日本人は従順だから政権批判しない」「搾取には抵抗すべきだ」云々。そして、何万とリポストされ、何万といいねされる(「声をあげよう」という声をたくさんあがるわけだが、そうなると「声」とはなんなのか?と問わずにはいられなくなる)。

小さな勝利はあるだろう。領収書の中身について国会で質問が行われたり、派閥が解体されたり、対策委員会が立ち上げられたり。だが、どれもせいぜいカメコがコスプレイヤーに「視線くださーい」と声をかけてポーズを取らせているレベルにすぎない。要するに、何かが改善しているかのようにポーズさせる茶番以上のものはなにも引き出せない。かつてはゲバ棒を振り回していた左翼たちは、インターネットのすみっこぐらしで満足するゆるキャラに成り下がっている。

そしてとうとう、資本主義や国家を揺るがす事態は、ファンタジーの世界でも起こり得なくなってしまった。もはや資本主義の終わりなんて、国家の終わりなんて、誰も想像できないのかもしれない。

一方で、僕はこの状況に希望を感じなくはない。誰もが革命を望み、Xで鼻息の荒い投稿をリポストしているのだ。これはもしかして、誰もが「2軒目行く?」と言い出すに言い出せないような状況なのではないかと感じている。

話の盛り上がり具合や仕草、経過した時間から総合的に「これはもうみんな2軒目いきたくなっている頃だろう」という確信を得ていなければ「2軒目行く?」と発言するのは不可能だ。しかし、誰かが言い出せば「行こう」と乗り出して、みながお会計へと歩みを進みることになる。

おそらく、なんらかの革命を起こしたい人は多い。が、みなが周りの顔色を窺っているのだ。「革命いっとく」と誰かが言い出せば、「行こう行こう」と雪崩を打つように革命の火が燃え上がる可能性もある気がしている。

わからない。問題があるとすれば「革命」がなにを意味するかが、人によってバラバラであることだ。革命とは、ある人にとっては生産手段の共有を。ある人にとってはプロレタリア独裁を。ある人にとってはベーシックインカムを。ある人にとっては北欧ちっくな国家社会主義を。ある人にとっては国家の完全な解体を。ある人にとっては貨幣経済の終焉を意味する。

右翼は現状維持を望み、左翼はバラバラのビジョンを思い描き内ゲバに終始する。だから右翼が常に勝つと言ったデヴィッドグレーバーは正しかったように思う。左翼が集まり開催される「ぼくのかんがえたさいきょうの革命」の発表会は、混沌とした罵声の応酬で始まり、悲鳴に終わる。

なら僕はアンチワーク哲学で、左翼の星になりたい。群雄割拠の左翼界隈を圧倒的なカリスマで統一し、右翼と天下を二分する(天下二分の計)。そして最後には右翼を滅ぼし、天下統一と、革命を成し遂げたい。できるだろうか?

わからない。どのみち「革命いっとく」の前にある程度の根回しは必要らしい。左翼というやつは、これだから困る。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!