「文章で伝えるvs会って話す」の泥沼試合
文章は情報量が少なく誤解を招きやすいのに対し、表情や声色や身振りを伝えられる「会って話す」は情報量が豊富で誤解が少ない。勝敗は明らかに思えるこの「文章で伝えるvs会って話す」の合戦に、僕のようなテキストに頼り切って生きてきたコミュ障が刺客として参戦するなら、どんな風に槍を捻じ込むべきだろうか。
僕から言わせれば、言いたいことを言い切ることができるのは間違いなく文章だ。少なくともじっくり考える時間さえあれば、情報を余すところなく記述することができる。
一方で対面での会話なら話は異なる。時間がいくらあっても、話題は予想していない方向に転がっていき、自分が話したかったことの半分も話せないなんてことも珍しくはない。当意即妙に自分の話題に切り替える戦略が成功することもあるが、ほとんどの場合は失敗する。
「言いたいことを言い切ること」だけに注目すれば明らかに文章の方に軍配が上がる。しかし、それが「伝わっているかどうか?」となると話は変わってくる。
文章であれこれ書いたところで誤解・曲解されるどころか、実際はほとんど読まれていないのが普通だ。だからオナニー的に発信することはできても、そのほとんどは伝わっていない。
とは言え、対面の場合は伝わる伝わらない以前の問題で、そもそも発信することすらできないのだから、まだ伝わる可能性がわずかでも残されている文章の方が優勢に思える。
やっぱり僕は文章派ということになってしまうだろうか。
もちろん、会って話すことの目的は「伝えること」だけではない。別に伝えたいことなんて大してない。一緒に過ごして何かわからないけれど何かをやって、何だかわからんがわかり合った気がする。それはそれで必要なことだ。
文章でも、あれこれやり取りしているうちに、分かり合ったような瞬間はくるが、それはテキストの情報そのものによりわかり合ったというよりは、やり取りそのものの繰り返しによってわかり合っているという事実を相互に形成していくと考えた方が自然だ。
実際、言葉よりも気持ちを伝えたいことの方が多い。Official髭男dismのあの名曲は、きっとそういう心理を描いたものなのだろう。
「愛している」よりも愛を届けたいのだよ。文章でも、対面でも、伝えられるだろうけど、なかなか伝わらないものだね。
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