芸術とは余暇である
『縄文論』という本を読んだ。
タイトルから受ける印象とは違い、一貫して岡本太郎アゲが行われている本だった。
僕は岡本太郎のこともよく知らないし、芸術の文脈についても疎い。サーリンズとか、バタイユとか、吉本隆明とか、渡辺仁とか、その辺りを縄文と絡めながら岡本太郎アゲが行われていたわけだが、結局よくわからなかったというのが正直なところだ。
岡本太郎に限らず、大物芸術家はよく持ち上げられる。それはなぜかを考えた。きっと芸術家は四六時中、訳がわからないけれど好きなことに熱中している(とイメージされている)からだ。
現代社会で、四六時中好きなことに熱中できる人はほとんどいない。1日8時間かそれ以上働き、移動して、飯を食って寝ればもうほとんど時間は残されていない。で、わずかな時間で倍速でアニメを観たり、Fortniteをやったりする。要するに、時間がないから誰かに枠組みを用意されたエンタメを消費することしかできない。
そして、創造的な芸術家と、受動的な消費者という構造が生まれ、相対的に専業芸術家には価値があるということになる。
そういう分断に異議を唱える人たちは多そうだ。とはいえ、僕は詳しくないのでChatGPTに聞いてみた。
Q.芸術家と鑑賞者が分離されていることを問題視する主張や、人物を教えて。
なんか、みんな頑張ってるなぁと思いました(小学生並みの感想)。
ただ、参加型の芸術って、設計が前提にあって、僕たちは保育士のワゴンに詰められて運ばれる子どものような扱いを受けている印象がある。モザイクアートのように、僕たちの創造性は小さなビットに閉じ込められて、大いなるデザインのために奉仕させられるわけだ。
ならば結局のところ、参加型の芸術といえども、受動的な鑑賞者と大差ない。やはり芸術に必要なのは余暇だ。僕は余暇とは、好きなことに取り組める時間と定義している。そして、芸術とは好きなことに取り組むことやその結果だと考える。つまり両者はイコールなのだ。
僕は芸術行為自体に価値があると思っている。価値があることは影響力があることを意味しない。芸術作品に世界を変える影響力はないと思っている。
岡本太郎はあれこれと難しいことを考えながら『太陽の塔』を作ったらしい。だが、それはきっと僕には伝わっていない。僕に雷に打たれるような気づきを与えることもないし、芸術的な生き方へと導いていくこともない。「ふーん。なんか変な塔を建てたんだね」という感想だけを僕に与えて、世界はなにも変わらない。
芸術は、あたかもそれが世界に大きな影響を与えたかのように批評されることが常なわけだが、「ちょっと大袈裟とちゃいまっか?」という一般的な(それでいてみんなが黙っている)感覚は恐らく正しい。
それは、カズオ・イシグロの『浮世の画家』という小説で示唆されていた通りだ(紹介してもどうせ誰も読まないと思うので壮大なネタバレをする)。戦前に戦争賛美画を描いていた画家である主人公が、戦後に価値観が180度変わった社会で白い目で見られるという小説‥に見せかけて実はそれは自意識過剰の被害妄想であり、実際は彼の絵画のことなんて誰も気にしていなかった。そんなオチがついている小説だ。これと同じことが、現実世界でも起きている。
芸術家や評論家は象牙の塔の中でシコシコと理論を捏ね回して、あたかもその芸術作品が世界を一新するかのように評価しているわけだが、僕たちは「ふーん、なんか素敵ね」と鑑賞して、スタンプラリーを押すような感覚で美術館をめぐる。ジョージ・オーウェルは「全ての芸術はプロパガンダ」と言った。恐らくそれはその通りだが、かつてヒトラーが喝破したように、プロパガンダは繰り返されてこそ価値がある。芸術作品はあくまでプロパガンダの不完全な断片に過ぎない。
では、創作の瞬間そのものにフォーカスするタイプの芸術を評価すべきなのだろうか。そうともおもえない。
あくまで芸術家の創作の瞬間を鑑賞しているだけで、鑑賞者の能動性は発揮されないからだ。
Q. 完成された芸術作品ではなく、創作の瞬間そのものにフォーカスする芸術手法や芸術家を教えて
まぁ色々あるらしいが、中途半端だ。鑑賞者は鑑賞者にとどまっている。
なお、作品は鑑賞によって完成するという風潮もあり、それも一理あるものの、やはり創作が一番だと思う。なぜなら、創作しているときの方が楽しいからだ。
ならば今の時代に必要なのは、最先端のアート表現ではない。それはどこまでいっても短い休暇に消費する商品に過ぎない。必要なのは余暇だ。好きなことを好きなだけやる時間だ。それはそのものが芸術であり、芸術を芸術家の手から解放する営みだ。
すべては戯れのままに。余暇を楽しもう。
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