出産を病院に丸投げした僕たち
出産を経験したことのある女性なら、「陣痛の間隔が10分以内になったら病院にきてください」という親切な助産師の言葉を信用してはならないことを知っている。実際に10分以内になって病院に電話してみると、たいてい「どれくらいの痛みですか? 出血量はどれくらいですか? …あぁ、それくらいならまだまだですね。不安なら一度きていただいても大丈夫ですけど…たぶん入院できずに家に帰ってもらうことになりますよ?」と、ぶっきらぼうにあしらわれることになる。
とはいえ、家の中で羊水を垂れ流すようなリスクが少しでもあるなら、恥をしのんでとりあえず病院に行くのが常識的な判断だろう。実際、僕の妻もそのような判断をした。そして病院に着くやいなや「ぜんぜんまだまだですねー!」とバッサリ切り捨てられた。「10分以内って言ったやんw」と愚痴りながら、妻と2人でトボトボと家路を歩いたのは昨日の夜9時ごろである。
このような状況を味わったことのある人なら誰しも「多少早くても入院させてくれればいいじゃん」と思わずにはいられない。だが、もちろん大人なら誰しも病床に限りがあることは知っているし、産婦人科のマンパワーが無限ではないことも知っている。だから不満をグッと堪えることになる。
僕はグッと堪えながらも、違う疑問を抱いてしまった。「そもそも、なぜ病院で産まなければならないのか?」という疑問だ。
僕の姉は、僕の母親の実家で、産婆に取り上げられたらしい。その当時の話を詳しく聞いたことはないのだが、正直羨ましいと思ってしまった。入院費用とリスクを天秤にかけたり、助産師の顔色を伺ったりすることなく、出産まで自宅でゆっくり過ごすことができると思われるからだ。
住み慣れた自宅で、家族に見守られながら、陣痛が来るのをゆっくり待つ。きっとドキドキするし、痛いし、辛い。でも、安心で包み込まれるような感覚があるのではないかと思う。もちろん、緊急時の医療行為が難しいというリスクや感染症のリスクはあるものの、やはり自宅出産への憧憬は捨て難い。
ここで当然生まれる疑問は次のようなものだ。僕たちはいつから出産を病院に丸投げするようになったのか?
雑に検索してみると、情報があった。
これをみる限りでは、僕の祖母くらいの世代までは、自宅で産むことが一般的だったようだ。リードするのは産婆だろうが、恐らく周りの女性たちも積極的に出産をサポートしていたのだろう。きっと今よりも手触り感のある出産だったに違いない。
そういえば、かつてイヴァン・イリイチは、医療行為が医者によって根源的に独占されてしまったことを憂いていた。
科学的な根拠や医者の専門性を軽視するリスクのある主張だとはいえ、一理ある。僕たちは専門家信仰に囚われすぎているのだ。分業は有益である場合もあるものの、限度はある。自分たちの面倒はある程度自分たちで見る方がいい。毎日の着替えやシャンプーをプロに外注するような未来が、僕たちにとって望ましいとは思えない。同様に、出産くらいは程々にプロの手を借りつつも、自分たちのテリトリーで行ってもいいはずだ。
プロは尊敬すべきだとはいえ、決して万能ではない。僕の母親は保育士資格を持っているが、どんな子どもでもあやしつけられるわけではない。にもかかわらず「保育士なんやから大丈夫やろ」と過大評価されることが多い。きっと医者も同様だろう。素人が風邪を治療できないのと同じように、医者にも治療できない。
とはいえ、自宅での出産を経験した逞しい女性たちは、ほとんど生き残っていない。ノウハウは産婦人科に独占されてしまっている。だが、イヴァン・イリイチの「進歩とは、依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味する」という言葉を僕は忘れずにいたい。産婦人科はあれこれと進歩したかもしれないが、僕たち素人は間違いなく退化した。それは社会全体で見た時に進歩であるとは言えないはずだ。
めっちゃ今更だが、自宅でチャレンジしてもよかったかもしれない。うーむ困った。とりあえず早く産まれてくれたらいいなぁ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!