「他人の意見を否定しないようにしましょう」という人に否定されがちな僕

JSミルという御大が、僕の言いたいことを言ってくれている。

自由な討論を支持する主張の妥当性を認めながらも、それを「極端に推し進める」ことには反対する、というのは不可解である。
疑いの余地がありうるあらゆる問題について自由な討論を認めておきながら、特定の原理や教義に関しては、それが確実であるから、つまり、自分たちはそれが確実であると確信しているから、疑問を挟むことは禁止すべきだと考えも、無謬性の想定にはならないなどと思うのは、おかしな話なのである。

この前、ちょっとしたコミュニティに参加した。様々なテーマについて議論‥というほどまで堅苦しくない程度の雑談を行う場だ。

そこのコミュニティのファシリテーター的な人がその場を取り仕切っていて、手始めにルールを説明してくれた。

「もちろん自分と違う意見もあるはずです。ただ、それを否定するのではなくて、違う意見としてまずは受け入れて、尊重しましょう」

なるほど、立派な信念だ。

朝生みたいな議論の体裁をした口喧嘩ではなくて、リベラルな寛容さを備えた建設的な議論をすべきというわけだろう。

僕は人に否定されたり、口論になったりするのを避けて、本音を言わないことがよくある。僕は、ここなら大っぴらに曝け出して問題ないのではないか?という期待感で少しそわそわ。

しかし、議論が始まってすぐに、僕の期待感は崩れ去ることになる。

それは、なんやかんやで家計簿の話になったとき。

会社は当たり前のように財務諸表をつけるのに、家計簿をつけない人もいる。しかし、そういう人はたいていお金にだらしない。家計簿をつけることで自分の無駄遣いがチェックできるし、ライフスタイルの見直しに着手できる‥という意見がほぼ共通認識になっているような状態で、僕にマイクが回ってきた。

僕はそもそも家計簿反対論者なので、これまでの議論を全否定したい欲求に駆られた。

「毎日コンビニでスイーツを買っていたけど、家計簿をつけてからはやめるようにした」みたいなエピソードを聞いてみんなが「毎日はお金かかるよねぇ‥」「家計簿のおかげだねぇ‥」みたいなことを言って感心してる場面に、「いや、家計簿つけなくてもわかるだろw 現にここにいる人はあなたの家計簿を見たことないけど無駄って言ってるやん?」と突っ込みたくてウズウズしていた。

だが、例の理念に則って婉曲的に表現することを選んだ。

「僕は家計簿もつけないし、給与明細すら見ません。必要あれば買うし、なければ買わないので、記録したところで自分の行動は変わらないと考えているからです」

これはあくまで個人的な話だ。確かに、他の人たちの行動指針とは異なるが、たまたま考え方が違うだけで、誰も傷つけていないはず。

しかし、例のファシリテーターはこんなことを言うのだ。

「えっと‥家計簿はともかく給与明細を見るって言うのは、自分の収支を把握するための常識‥というか当たり前であって‥それをしないというのは自分の人生に向き合っていないように思うのですが‥」

いや、思いっきり否定しとるやんけ!

話し口調こそ、寛容なリベラルを装ってるけど、僕のことを常識がないゴミ扱いしとるやんけ!

そういえば過去にもこういう経験をしたことがある。

会社の"自由"で"否定しない"が鉄則であるという触れ込みの企画会議(社員を団結させ、生産性を高めるための取り組みを決める会議だ)で、僕は会社の模様替えを提案した。

自分のデスクの場所や壁紙の色、観葉植物の種類などは、トップダウンで決められるが、それを民主的な話し合いで決定していくプロセスで団結力や自己決定力が生まれるはず。忖度しない文化も育まれる。それに仕事の生産性を高めるためのレイアウトは社員本人の方が知っているはずだから、生産性という観点からも優れている‥という主張だ。

これもゴミのように扱われた。

他の社員は、「社員旅行を年に1回から2回に増やそう」とか、「運動会を開こう」とか、そんなことを言っていて、こちらは説得力のある議論として扱われている。

年に1回の社員旅行が、いま社員の団結や生産性の向上に貢献しているようには見えないのに、それを2回に増やすなんて正気の沙汰ではないと思っていたが、僕は「否定しない」というルールを律儀に守っていたのだ。

それなのに、ちょっと変化球を投げただけで、都合よくルールをひっくり返される。

なぜだろうか? 

僕の意見は確かに常識外れであることが多いが、それなりに根拠は用意しているし、検討するに値しないほどのものではないはず。リベラルな寛容性を看板に掲げる集会なら尚更だ。

それなのに、なぜかこうやって否定される。そして僕は涙を飲んで、noteという掃き溜めに愚痴をこぼさなければならない。

ここで気づく。「他人の意見を否定するな」というのは「私の意見を否定するな」という意味なのだ。

なぜなら、常に私の意見は真理だからだ。

そういう人たちは口を揃えて「常識は疑うべき」と言う。だが、その人たちが想定する常識とは、自分が否定している意見のことだ。仮想的な「常識」を設定して、それを疑ってたどり着いた自分の真理こそが究極の真理であって、そこにみんながたどり着くのをファシリテーターである私が先導してあげる‥というスタンスなのだ。

疑うべき常識とは、その人が否定した仮想的な常識だ。そして、「仮想的な常識を信じると想定される人」は、ファシリテーターのたどり着いた真理を否定しがちと想定される(ファシリテーターのたどり着いた真理は、進化論や地動説のように全く新しい意見であるから、古い価値観に縛られた人には否定されてしまうというドラマチックな悲劇が想定されている。僕に言わせればたいていその真理こそが、凡庸な一般論なのだが)。

だから、「(私がたどり着いた真理を)否定しないようにしましょう」ということになるのだ。

これは明らかに茶番だ。ファシリテーターが思い描くシナリオを妨害する異端行為(給与明細を見ないと主張するなど)を働けば、即座にゴミ扱いされるのだから。

辛い。でも、これは僕に課されたドラマチックな試練さ。

チョムスキーだったか誰だったか忘れたが、こんなことを言っていた気がする。

その場に合わせて常識通りに話すより、宇宙人と思われても思っていることを話せ。

その言葉を胸に仕舞い込んで、今日も僕は真理と戦おう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!