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ワガママな人は、存在しない

いま、あなたの脳裏に浮かんだ「ワガママな人」が話す言葉をよ〜く聞いて欲しい。

「ふつう〇〇やろ」「〇〇するのが当たり前やろ」「〇〇の方がいいに決まってるやろ」「〇〇が常識やろ」

‥そんな言葉を使っているのではないだろうか。

ワガママな恋人も、自分の感情を根拠にはしない。

「たまにはご褒美も大事」「こういう場面は男性がリードすべき」「ヒールで歩かせるのは有り得ない」

決してその人自身の感情を根拠にして、相手に従属を強いているわけではない。合理性や道徳、マナーといったなんらかの大義名分を根拠に据えて発言している。

一般的に「ワガママな人」とは無根拠に自分の感情の赴くまま行動する人だと考えられている。しかし実際は逆で、ワガママ(に見える人)はやたらと根拠を提示してくるのだ。

決して「おれがこうしたいから、こう!」とか「うるさい、いいから黙って言うこと聞け!」と言うことはない(少なくとも僕はそんな風に人から命令されたことはない)。

彼ら彼女らの自己イメージはあくまで「自分は感情的ではなく、客観的で冷静で、合理性や正義に従っている」ということになっている。もちろん実際はそうではない。表皮を一枚剥げは、そこには雑多な欲望が渦巻いているはずだ。

いわば彼ら彼女らは、一挙両得をしようとしている。「客観的で冷静な自己という評判の獲得」と、「欲望を押し通すこと」の2つだ。

本来は「あっち立てればこっち立てず」なのだ。つまり、本当に客観的で冷静であるという評判を獲得しようとするなら、対話相手の意見を即座に却下してはならない。対話を重ねて、時には相手の意見を受け入れるべきだ。これは大変にめんどくさいことでもある(だからワガママっぽい人は、大義名分を用意してゴリ押しをするのだ)。

一方で、欲望を押し通したいなら、本来は「いいから、俺のいう通りにして欲しい!」と言わなければならない。そのかわりにワガママな奴という評判を受け入れる必要がある。

しかし、ここで考えたい。本来の意味でのワガママは、果たして悪いことだろうか?

伏黒がワガママを言うシーン。こんな人は、普段めったに見かけない。

『呪術廻戦』の伏黒のようにワガママを言えば話が早い。「正しいか? 正しくないか?」みたいな不毛な議論をすっ飛ばして、「やるか? やらないか?」という本質的な議論にノータイムで取り組めるからだ。

根拠がワガママならば断ることも容易い。しかし、本来交渉とはそういうものだ。正義や道徳で断る道を塞いで人に交渉を持ちかけるのは、気分が悪い。それならばまだ、まだ生殺与奪を握られる方がいい。

意外と姑息なルフィ。でも、正義や道徳は決して掲げないルフィ。

正義は議論の種になる。しかし僕たちは議論するために生まれてきたわけではない。ならば正義なんて捨ててしまった方がいい。正義がなくても人は生きていけるが、感情がなければ人は生きていけないのだから。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!