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労働がない人生は退屈か?

労働の効用として4番目か5番目に出てきがちな主張がある。それは「労働がない人生は退屈」というものだ。

労働とは、何らかの目的に向けて自分を律し、アプローチし、達成し、フィードバックを得るというプロセスでもある。このようなプロセスがごっそり人生から抜け落ちてしまえば、人生はダラダラとヒルナンデスを眺めているような時間で埋め尽くされてしまい認知症まっしぐら、というわけだ。

この主張自体は、一理なくもない。というか大部分は賛同できる。日がな一日ヒルナンデスのような娯楽を鑑賞するだけの人生は苦痛以外の何ものでもない。

しかし、同意できないポイントは、この主張の根本にある2つの前提だ。「何らかの目的に向けて自分を律し、アプローチし、達成し、フィードバックを得るというプロセスは労働によってしか得られない」と「労働以外の時間、人は受動的な娯楽以外にやることがない」という前提である。この2つが前提されていなければ「労働がなければ退屈」などという主張はあり得ないだろう。

しかし、目的設定~達成~フィードバックのプロセスは労働以外でも得られる。むしろ、自分が真に重要だと感じる目的を設定できる上、アプローチ方法も自由に設定でき、かつ不愉快なお説教やクレームという形でフィードバックされない分、労働以外の活動の方が、このプロセスを満喫できるとすら言えるだろう。

そして、人は目的設定~達成~フィードバックのプロセスを自発的に選択する傾向にあることは明らかだ。週に2日しかない休みを受動的な娯楽で費やす人も多いが、料理をしたり、キャンプをしたり、日曜大工をしたり、農業をやったり、裁縫をやったり、スポーツをやったり、何かと活動をするのが人間だ。受動的とみなされる娯楽ですら、例えばゲーム1つをとってもわざわざ縛りプレイをするような人は多いし、漫画や映画を何万字にわたって考察するような人もいる。

冷静に考えれば、逆だろう。労働がない人生が退屈なのではなく、労働が退屈なのだ。

もちろん、労働を退屈ではないものに変えていくことはできる。刺身にタンポポを載せるような仕事ですら、タンポポが潰れない置き方の追求や、作業効率の向上、モチベーションアップのための工夫など、あれこれと目的を設定することはできる。実際にそうやって労働をやりがいあるものへ変えている人は多い。しかし、そもそも初めから自分が心の底からやるべきであると感じるような目的が設定されることは少ないし、自分で自由にアプローチしてあれこれ試す自由も限られていることの方が多い。

労働は、退屈でないものに変える余地はある。とはいえ、退屈なものになりがちである。

このことは疑いようがないだろう。

逆に週に2日の休日に受動的なエンタメを消費してばかりの人が多いのは、労働の現場で自発性を奪い取られているからだと思われる。自発性を根こそぎ奪われた人々が、いざ自由を与えられたところで戸惑うのは当然だろう。受動的なエンタメとは、「これが楽しいものなのですよ!」と押しつけられた正解を、「こうやって楽しむものなのですよ!」と押しつけられた通りに楽しむものだ。職場で正解を押し付けられた人々は、余暇でも正解を求める。

つまり、労働があるからこそ、受動的なエンタメを消費する受動的な消費者ばかりが溢れかえることになる。労働を無くしていくならば、受動的な消費者は自然と減っていくだろう。自分たちで自由にアプローチできるものの方が、どう考えても楽しいのだから。

だらだらとYouTubeを見ることと、何かあなたがこれまで自分の創意工夫を持って熱中してきたこと(バンドなのか、絵を描くことなのか、工作なのか、なんでもいいが)、どっちが楽しかったかを比べてみるといい。前者の方が楽しいと言う人はいないはずだ。

というわけで、また労働のメリットを完膚なきまでに叩き潰してしまった。労働なき世界まで、あと一歩だ。


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