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労働論の限界と、労働の再定義

■巷の労働論の弱点

労働というテーマで膨大な紙幅(ビット幅?)を費やしてきた僕が言うのも憚れるが、労働というテーマを1人の論客が論ずるのには限界がある。そのことに最近、労働をテーマにした本を読み漁っていて気づいた。

そもそも「労働」という言葉が意味する範囲が広すぎる。僕が定義する「経済活動」と「政治活動」の区分が十把一絡げにされているだけでなく、ブルーカラーとホワイトカラーもごった混ぜだ。もちろん、ブルーカラーと一口に言っても、大手企業で正社員雇用される高卒の長距離ドライバーにとっての労働と、日雇いで交通整備する定年退職後の老人にとっての労働は違う。DX推進のためにパワポ資料を作る意識高い系コンサルも、デスマーチをダンスする底辺SESプログラマーも、期間工も、大企業の役員も、スーパーのレジ打ちも、インドの綿花農家も、コンゴのコバルト掘りも、すべて「労働」である。1億人いれば、1億通りの労働観があるというと大袈裟なものの、100万通りくらいはあるのではないだろうか?

労働論客たちは、せいぜいそのうちの1つか2つの立場を経験し、3つか4つくらいの労働者の見解を見聞きした程度で「現代人にとっての労働とは?」などど語り始めるのである。そこに労働論客の価値観とバイアスが紛れ込むことを避けるのは難しい。

手前味噌なことを言えば、僕は労働を論ずるにあたっての情報を比較的有している方ではあると思う。大手から零細まで、企業役員から底辺の派遣労働まで、1000以上の仕事について取材し執筆してきた経験と、ブルーカラーホワイトカラー両方の実務経験がある。飲食や物流倉庫といったアルバイト経験も人並みにある。とは言っても、僕の知識も完全ではなく、多分に偏りは存在するだろう。

もちろんこれは何かを語るにあたっては多かれ少なかれぶち当たる課題ではある。だが、労働ほどに多様でありながら、1人の人間がそのうちの1つの世界にのめり込む傾向にあり、かつその全体像を語られるテーマはそうそうない。


■労働を語り直すためには?

労働について語ることは、実質的に何を語るか宣言しないまま、何かを語るのに等しい。ならば、労働を語る人の正しい態度は、労働を定義することや、労働を分類することからスタートするべきだろう。「労働という広大なテーマをどのように分割して、そのうちの何を語るのか?」を宣言することが労働論客の正しい態度ではないだろうか。

そうすることで例えば「労働なき世界」の「労働」が何を意味するのかが明確になる。それが明確でない限りは、意思疎通のない抽象的なレベルで議論が展開され、不毛に終わる。

では、改めて労働とはなにで、労働ではないものは何かを考えてみよう。そして、僕が考える労働と、一般的な意味での労働は何が違うのかを考えたい。


■一般的な労働の定義

まず、労働ではないものを考えるにあたっては、人間の行為全般を考える必要がある。そこで人間の行為を4つに分類した。

久々にPCで仕事っぽいことをした。慣れないことはやらない方がいい。

そして、一般的な労働はこの辺りだろうか。

家事を含めるかは議論が分かれるが、「家事労働」という言葉もあるくらいだし、一旦入れておく。

おそらく一般的には、金銭的報酬を得ることを目的に行う行為全般に加えて、社会や誰かの役に立っている(と一般的に想定される)行為を含めて「労働」と呼ぶ傾向にある。

もちろん、この分類は完璧ではない。生活保護の申請やパパ活は右上に含まれるが、労働とは呼ばれない傾向にある。金銭的報酬があるものの、社会に必要ではない(と想定されている)からだ。同様の理由で、詐欺や窃盗も労働とは呼ばれない(だが、その軸を含めて図を作成する能力は僕にはない。誰か助けてビジネスエリート様)。

ここでは「(と一般的に想定される)」という点が重要である。ブルシット・ジョブはやっている本人は「必要ではない」と感じているわけだが、周囲の人々は胡散臭いコンサルタントに対しても「何か立派で、社会に必要な職業なのでしょう…」という賞賛を送る傾向にある。

ともかく、一言で定義を与えるのは難しいが、おおよそ一般的な労働の定義は、これで問題ないだろう。


■僕が考える労働の定義

一方で、僕が考える労働とは、以下の通りである。

僕は、楽しくないものを全て労働と定義し、その意味で「労働なき世界」を提唱しているのである。

これは「僕はこのように定義する」というものなので、決して間違ったことは言っていない。僕は楽しくなかったり、内発的な動機で取り組まないものを、「労働」と呼ぶ。そして、その上で「労働なき世界」を実現することは可能だと考えていて、そのために必要なのがベーシック・インカムだと主張している。

僕は労働を定義づけするには、本人の気持ちを重視すべきだと感じている。

その行為が社会の役に立つかどうかや、金銭的な報酬があるかどうかはあまり重要ではない。特に社会の役に立つかどうかという点、いいかえれば人間の生存に必要かどうかという点は、労働を語る上では重視される傾向にあるが、僕はそこまで重視しない。

なぜなら、パンを焼くという行為ですら、直接的に生命の必要性に貢献しないからだ。そもそも現代人は必要以上に食べているし、必要最低限食べるのだとしても小麦をそのままお粥にして食えばいいのである。わざわざ挽いて捏ねて焼くパン屋の労働は、YouTuberがメントスコーラで広告費を稼ぐのと、質的な差異はない。

つまり、人間の活動の大部分は既に生命の必要性に駆られているわけではなく、実質的に遊びであると僕は考える。例えば赤ちゃんのおむつを変えたり、年寄りを風呂に入れたりするのも、究極的には遊びたりうる。あまりに不潔だと感染症リスクが高まるが、清潔に保つくらいの行為はそこまで辛いものではない。それが義務感によって行われた場合は労働になるが、週に1日や2日くらい面白半分で取り組めば楽しい。世間的には退屈でつまらない労働だとされているものも、それが義務感に駆られていたり、ずっとやり続けなければならなかったりするから退屈でつまらないのであって、そうでないなら、そこそこ楽しいか、大した義務感は感じないのだ(歯磨きやトイレを嫌がる大人がいないのと同じである)。

だから、全てを余暇にすることで、社会に必要とされるような行為も十分に行われつつ、人々は人生を楽しめると考えられる。

人によっては色々と異論はあると思うし、僕もそれに反論する用意はあるのだけれど、長くなるのでこれ以上は書かない。ともかくとして、労働について語るにあたっては、労働をどのように定義して語るのかが重要であり、そうでなければ無意味であるというのが、今回の記事で言いたかったことだ。


■おまけ

もう一個作った図である。わかりやすいようで、わかりにくい。


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