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宣伝とはなにか?【雑記】

YouTuberの案件動画に漂う、ピリッとした緊張感を感じ取らない人は少ないように思う。いつもは本音で楽しそうに話す彼が、筋書きに支配されているような、利害関係という監獄にとらわれているような、そんな感覚。

SNSでなにかを拡散するを見たときも同様である。「これは拡散したらクーポンもらえるやつかな?」とか「宣伝してくれって頼まれてるのかな?」といった雰囲気を感じずにはいられないのだ。

もちろん気づいていないだけかもしれない。僕が「きっとこの人は本心で宣伝している」と感じていても、実は裏側で眼鏡をかけて算盤を弾くスーツ姿の男が暗躍していることに気づいていないだけなのかもしれない。それでもやはり、「なんとなくわかる気がする」という感覚は、多くの人が抱いているのではないだろうか。

きっと、本当の宣伝は、本当に宣伝したいと思った人にしかできないのだと思う。それはお願いされたからでもなく、クーポンがもらえるからでもなく、ただ多くの人に知って欲しいから。そういう宣伝の方が、より多くの人の心を打つことは想像にかたくない。

マーケティングやコピーライティングといったテクニックが本当にその真価を発揮するのはこういう場面ではないだろうか。僕は広告業界をブルシットジョブの典型としてこき下ろす傾向にあるが、「伝えたい」という想いを人に伝わる形で言葉やビジュアルに変えていく営み自体を否定したいわけではない。言葉を生み出した人類は、誰かと協力せずには生きていけない生き物だ。そのための努力を無駄だと一蹴することは僕の本意ではない。それはきっと人が本気で情熱を傾けるに値する、重要な営みである。

もちろん、たどたどしい言葉で伝えることが逆に効果的である場合もあるだろう。それでも「どうすれば伝わるだろうか」と考え抜く努力がないなら、その熱は空気中にぼんやりと広まるだけで、なんの仕事も成し遂げない。

「仕事」は単にエネルギーを注げばいいっていうものではない。エネルギーの方向づけをコントロールしなければ、エントロピーが増大するままに増大し、望んだ結果は得られない。蒸気機関も、ディーゼル車も、その基本を守っているから仕事をしてくれているわけだ。

とはいえ、それもこれも情熱的なエネルギーがあってこそである。金のため、誰かに命令されたから仕方なく行われた仕事にたいした成果が期待できないことは、マネージャー向けに書かれたビジネス書や自己啓発本でも口酸っぱく指摘されてきた。

だから僕は誰かに宣伝してほしいと思っても、その人が本当に宣伝したいと思う瞬間を待とうと思った。そして、僕自信が宣伝したいと思ったときは、惜しみなく宣伝しようと思った。僕もかつてはコピーライターに憧れて、電通や博報堂のレジェンドたちの本を読み漁ってきたし、まがりなりにも広告と名前のついた仕事をしていた。きっと、多少は人に伝える技術を培ってきていると思う。

命令や支配ではなく、自発的な貢献が世の中をもっと良くするし、面白くする。その確信は強まるばかりである。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!