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労働廃絶論とアンチワーク哲学はなにがちがうのか?【アンチワーク哲学】

この点について気になっている人もいると思うので、お答えしておこう。アンチワーク哲学は労働の撲滅を訴えていて、ボブ・ブラックの『労働廃絶論』は労働の廃絶を訴えている。「なにがちがうの?」と感じる人も多いのではないだろうか。

結論から言えば、結論はほぼ同じである。では、アンチワーク哲学はなんのために存在するのかと言えば、『労働廃絶論』の議論を補強し、発展させ、そして労働の廃絶を実現させていくためである(いまのところ、『労働廃絶論』を真面目に読んでいる人はほとんどおらず、その目的が果たされたとは言い難い)。

そのためにアンチワーク哲学は、労働廃絶という結論が生まれた足元でなにが起きたのかについての地質調査からスタートする。そこでは人間の欲望や金、労働に関する常識の地殻変動=コペルニクス的転回が前提されているわけだが、ブラックはその点についてほとんど説明しなかった。ただ、説明されなかっただけであり、アンチワーク哲学は既に存在していたことは間違いない。『労働廃絶論』に先立ってアンチワーク哲学が準備されていなければ、『労働廃絶論』は誕生し得ないからだ。

とはいえ、微妙にニュアンスが異なる部分もある。今回は、なにが一致していて、なにが異なるのか、そうした点についても解説していきたい。

まず共通点から見ていこう。ボブ・ブラックは、労働の正体が強制であることを喝破した。この点に関してはアンチワーク哲学も同意見である。アンチワーク哲学も、労働とは強制であると定義する。そして、規律という名の連続する強制や、職業という名の同一の作業の繰り返し、あるいはそもそも強制そのものによって、もともとその作業に内在されている面白さが損なわれる傾向にあることを見抜いた。これも同意見である。あらゆる行為は強制により労働化する(心理学の用語で言えば「心理的リアクタンス」である)

さらに、誰もやりたがらないような作業(たとえばトイレ掃除)ですら、人は遊びに変えるポテンシャルを持っているとブラックは主張した。この点もほぼ同意見である。が、微妙に食い違っている。

アンチワーク哲学は、トイレ掃除はそもそもは遊びであり、欲望の対象であるという前提からスタートする。つまり、退屈な作業を遊びに変える必要はなく、正確には遊びではなくす要素(すなわち強制)を取り除くだけでいいと考える。

いやいや、トイレ掃除なんてやりたくないし、欲望することはないし、楽しくもないよ」と考える人が多いのが事実であろう。では、三歳児に次のように質問してみるといいだろう。「トイレ掃除やってみたい?」と。おそらく彼は目をキラキラと輝かせながら「やってみたい!」と言うはずである。それは彼にとってトイレ掃除が欲望の対象であるという証拠である。逆に、三歳児に「ご飯食べるのって楽しい?」と質問してみよう。あなたがトイレ掃除に抱いているのと同じような感想を抱いていることが即座に明らかになるだろう。「いやいや、ご飯なんて食べたくないし、欲望することはないし、楽しくもないよ」と。

ブラックはトイレ掃除が人間にとって遊びになる理由を説明しなかった。言い換えれば人間がなにを欲望するのかについて説明しなかった。アンチワーク哲学は人間はあらゆる行為を欲望すると説明する。むしろ、欲望することを欲望するのだ。それが自発的であると感じられて、自らの才能や人格の発露であると感じられるなら、あらゆる行為は欲望の対象なのである。つまり、そもそもあらゆる行為は遊びなのである。

「遊び」とは「自発的にやりたいと思ってやる行為全般」を意味する。ここで言う「自発的」とは必ずしも他者の要求にこたえることや、避けられない事態を回避することも含まれる。たとえば、喫煙所でライターを忘れて困っている人をみかけたとき、ライターを貸さずにいることはむずかしい。そのとき、ライターを貸すという行為は、欲望の対象であり、(小さなレベルではあるが)遊びだろう。あるいは、飲食店でコップの水がこぼれたとき、それをかたずけずにボケっとしていることは苦痛である。大人なら我先にと片付け始めるのが普通だろう。それはテーブルを拭く行為が欲望の対象と化していて、遊びと化していることを意味する。

アンチワーク哲学は人間の原動力は欲望であると考える。つまり、常識的な欲望の定義を拡大するのだ。常識は、食や性、睡眠、娯楽、権力、金銭といった方向にしか向かわないと考えていて、貢献することや問題を解決することは「優れた人格者が理性を働かせた結果、成しえた高尚な行為であって、人間が本来欲望することはない」と考える。アンチワーク哲学は、その恣意的な線引きは、労働によって生じたと説明する。

労働・・・つまり強制は、その行為自体を欲望を後ろ向きのものへと変える効果がある。なるほど強制と言えども厳密に言えば「死なないため」や「後ろ指をさされないため」といった欲望に基づく自発的な行為である。とはいえ、その欲望は前向きな欲望とは言えず、後ろ向きの欲望である。後ろ向きの欲望に基づく行為こそが、労働であると簡単に定義することができるだろう。

そして、このメカニズムによって生じる現象を強制による労働化効果と呼ぼう。強制による労働化効果をはじめに大規模にもたらしたのが、おそらく国家である。国家とは「暴力を通じて他者から税を課す営み」と簡単に定義することができる(そのため、強制こそが国家であり、労働こそが国家である。強制と労働をはじめてもたらしたのが国家であるという説明は、トートロジーであり疑いようがない)。税とは、はじめは暴力を背景とした労働力の強制的な提供としてスタートしたはずだ。しかし暴力で強制し続けることは骨が折れるし、不安定である。だからこそそれを安定的に運営していくために、税の対価として国家が負債を負った。その負債が約束手形として出回り、貨幣化した(そして暴力を見えないところに配置した)。最終的に貨幣の回収そのものが税となった(もちろん、他者の労働の結晶である小麦や米と現物を回収することも、労働力の強制的な提供であるとみなすことができる)。貨幣は、やりたくないことをやらせるだけではなく、貨幣によって行われる行為を「本質的に人間がやりたくないこと」であると錯覚させる効果がある。これを金による労働化効果と呼ぼう。そして他者への貢献は、そもそもやりたくない行為として想像されるようになり、貢献を受け取る行為のみが欲望の対象であるとみなされるようになった。言い換えれば行為を二分し、欲望の対象とそうでないものに切り分けたのだ

※もともとはそうではなかった。芋をたくさん持っているAさんと、芋を欲しがるBさんがいた場合、Aさんは芋を与えることに喜びを感じ、Bさんは芋を食べることに喜びを感じた。金がなければ欲望の二重の一致はすでに果たされていたのである。しかし、金が存在する社会では芋を無償で手渡すことは自殺行為である。ゆえに、芋を与えることが欲望の対象ではなくなる。もちろん、金を払うことも欲望の対象ではない。こうして金によって欲望の二重の一致は破壊されてしまった。

アンチワーク哲学は、金によって生まれた二分法を捨て去り、あらたな欲望の分類を導入する。たとえば、他者に貢献したいという欲望を「貢献欲」と呼ぶ。問題が発生したときにそれを解決したいという欲望を「問題解決欲」と呼ぶ。一度やり始めた行為を最後まで成し遂げたいと感じる欲望を「達成欲」と呼ぶ。行為能力を高めていきたいと感じる欲望を「成長欲」と呼ぶ。そして、それらをすべて自らの意志と行為によって成し遂げたいと感じる欲望を「能動欲」と呼ぶ。

こうした欲望を欲望として捉えてこなかったことに、人類の不幸の大半が由来する。たとえば、以下の記事でも取り上げられている事例、孫を愛するおばあちゃんが、子どもの服を着替えさせ、食べ物を口に運ぶ行為は、「良かれと思って」行われる能動欲のはく奪である。

おばあちゃんは、これが欲望のはく奪であることが理解できなかった。なぜなら、おばあちゃんにとって他者への貢献は常に自己犠牲であり、他者から貢献されることは欲望の対象であると思い込まされているからである。実際のところおばあちゃんは孫への貢献を欲望していて、過剰なお世話は自己犠牲ではなく単なる欲望の発露なのである(これがアンチワーク哲学が社会に必要な理由の一つである)。

※もちろん、他者への貢献が欲望の対象であり、ありふれていると主張するからといって、その価値を貶めるわけではない。空気はありふれているが、大きな価値を持っているのと同じである。

このことは明らかであるが、この事態を説明する言語をこれまでの人類は持ち合わせていなかった。身の回りをすべて召使にお世話されて育ったお姫様が、城の外での冒険を欲するようになる物語には、誰もが共感する。しかし、その心理を誰も上手く説明できなかったのだ。それを説明した途端に、現代の貨幣経済や労働社会を成り立たせているロジックがガラガラと音を立てて崩壊するからである。アンチワーク哲学は、それをスムーズに説明することができる(だから、労働の撲滅という結論が必然的に導き出されるのだ)。

※とはいえ、他者を支配し、貢献させることを欲望する人がいることもまた事実である。支配欲は他者を通じてスケールさせることができるが、貢献欲は自らの労力のみを頼りに満たされていくためスケールさせることができない。だからこそ、暴力を背景に「おい、お前の口に食事を運ばせろ!」と言って強引に貢献を受け取らせる人物のせいで、貢献を受け取ることが労働化するという事態に至らなかったのだろう。

さて、現代までのテクノロジーの発展も、すべて労働によって説明がつく。たとえば洗濯機を発明する必要があるのは、洗濯が苦痛である場合に限られる。僕たちは、ラーメンを一秒で食べられるスーツを発明したいと思わないし、それを発明したからと言って人類が進歩したとは感じない。同じように、国家や労働が誕生する前の人々にとって、洗濯機が必要とされることはなかった。わざわざそれを自動化する必要がなかったのである。

とはいえ、労働がきっかけとはいえ一度誕生したテクノロジーは新しいイノベーションの扉を開く。戦争がきっかけに生まれたコンピュータやインターネットは、そこから新たなイノベーションを生み出した。だからといって戦争をなくすことは、インターネットを捨て去ることを意味しない。同じように労働なくして誕生しなかったイノベーションは無数にある。だからといって労働によって生まれたイノベーションを捨て去る必要はないのである。労働が生み出した果実を受け取りながら、そこから更なるイノベーションを起こしながら、労働を捨て去ることは可能なのである(『労働廃絶論』を熱心に読み進めた読者は、最終的に「なぜ狩猟採集民が自由な遊びによってiPhoneを生み出さなかったのか」という疑問を抱くわけだが、以上の説明が、アンチワーク哲学による回答である)。

さて、ブラックはあらゆる行為も遊びに変換することはできると考えていたが、そもそも遊びであるとは考えなかった。また、長時間の繰り返しをとにかく忌避した。そのため、長時間の繰り返しを前提とした「職業」という概念を破壊することを提唱した。一方、アンチワーク哲学では、長時間の繰り返しが行為を苦痛に変える可能性を高めることには同意する一方で、かならずしも長時間の繰り返し全般を否定するべきではないと考える。なぜなら、人間が欲望のままに電気工事を二十四時間ぶっ通しでやり続けることや、年中無休でやり続けることを欲望することもあり得るからである。それを「やめるべきだ」と言うのは、逆向きの強制であり、忌避すべき「逆労働」である。

※余談だが、「非労働の労働化」という現象にも注意すべきであろう。労働(=強制)を忌避するあまり、自分がやりたくないと感じる行為をやらないことに強迫症的にこだわってしまい、身動きが取れなくなる現象である。人間がなにかを成し遂げるときに、短期的な苦痛や退屈を感じることは避けられない。しかし、短期的な苦痛や退屈は、人間の精神にさほど悪影響を与えないどころか、むしろそれを人は欲する。なんの困難もないテレビゲームほど退屈なものはないし、だからこそテレビゲームにはハードモードが存在する。適度な壁を乗り越えていき、成長欲を満たしていく過程にこそ、人の喜びは存在するのである。「いやもう、まじでやりたくねぇ」と思ったときにそれを続けることは労働であるが、少し迷ったり困ったりしただけで「いや、これは労働になっちゃってるからやめるべきか・・・?」的な不安感を抱く必要はないのである(そもそも、労働しないという現実的な選択肢があるなかで自らの意志で労働することになんの問題もない。なぜなら、それは自らの意志である以上、労働ではなくなっているからである)。

駆け足で寄り道の多い説明になってしまった。が、労働の撲滅が可能である根拠として、アンチワーク哲学は人間の欲望に関する理論を展開している。それと関連して、強制が誕生したメカニズムや、労働が誕生したメカニズムを、アンチワーク哲学は説明している。これはブラックが行わなかった説明である。そのうえで、微妙に粗があった議論(たとえば「職業」への批判)を整理して、再構築している。これがアンチワーク哲学の存在理由であり、わざわざ僕が『14歳からのアンチワーク哲学』という本を出版した理由である。

『労働廃絶論』と読み比べると面白いと思う。

※『労働廃絶論』はこれから翻訳して出版するので、しばし待たれい。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!