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都市・ピンハネ・不労所得

都市とはそもそも周辺から収奪してきて成り立つ現象だ。ギリシアもローマもそうやってできたが、今でもそれは変わらない。

周辺の農村から、地球の裏側の熱帯雨林から、中東から、資源を収奪する。

田舎に仕事がなくなって、都市の工場にプロレタリアートが殺到したというのは、もう昔の話。いまや工場の労働力すら都市の外部から収奪している。周辺から収奪してきた資源は周辺の工事で加工され、商品となって都市に流れ込む。都市住民(主にホワイトカラー)は主にそのプロセスでピンハネすることで生計を立てる。

ブルーカラー労働者は、都市の運営に全面的に責任を持つ。トイレを掃除したり、カフェラテを提供したり、アイロンがけをしてり、バスを運転したり。そのプロセスすらも、ホワイトカラーにピンハネされる。

ピンハネ業をしたい人は大学に入らなければならない。だからみんな大学に行きたがり、簡単に入れる大学が増える。ピンハネ業に就きたがるライバルが増えていくにつれてピンハネ業の旨みも減っていき、ピンハネ業もブラック労働になっていく。

みんながピンハネ業に群がるから、物を作ったりケアしたりする仕事は例外なく人手不足になっている。

「一生現場仕事だと将来がない」みたいなことを言う人は、要するに「俺もピンハネする側に回りたい」と言っている訳だ。

僕がピンハネと呼ぶのは営業とか、コンサルとか、経理とか、事務とか、総務とか、人事とか、広報とか、プログラマとか、広告業とか、管理職とか、まぁとにかくオフィスワークの全てだ。オフィスでは野菜も服もカフェラテも生産されない以上、その本質はピンハネにある(エンタメを生産している人たちは除く)。

ブルーカラー労働を管理する必要を指摘する声もあるかも知れない。だが、管理とは「お前たちは俺たちが管理しなければ何もできないのだ!」と言い張る以上の何物でもない。基本的には管理とは邪魔だ。家一軒建てるためには役所に馬鹿みたいに届出を出さなければならないが、その届出は何かの役に立つことはない。江戸時代の大工はほとんど届出なんて出さなかっただろうが、江戸時代の家は建ってから数日のうちに朽ち果てていたわけではない。

つまり、全てのホワイトカラー労働者は事実上、不労所得を得ている。しかし、ピンハネ競争が加熱した結果、不労であるにもかかわらず労働をしていると勘違いする人が増えた。卑弥呼が占いのために徹夜をしたり、奴隷商人が奴隷の管理の気苦労から鬱病になったりしても、それは労働とは呼べないのと同じように、ホワイトカラー労働者が24時間戦ったところで、それは労働とは呼べない。

都市に人が集まるのは、誰もがお金を求めているからだ。お金とは他人を動かす権力を数値化したものに他ならない。つまり、人が権力を求めて都市化は進む。

人を詰め込むためにアスファルトが敷かれ、コンクリートが積み上がり、鉄の塊が人を殺す速度で行き交う。太陽熱にそのまま焦がされるコンクリートジャングルを冷ますためにクーラーがついて、それがまた収奪を生む。で、電力が足りないと言い始める。ウンコは垂れ流されるのに、肥料が高いなどと言い始める。里山の木は伸び放題なのに、木材が高いと言い始める。

都市化とは、人間社会にはびこる精神病みたいなものだ。権力を求めるばかりに、非効率な社会になっていく。

権力なんて本当は必要ない。権力なしでも人は協力することができる。つまり、お金がなくたって別に構わない。お金なんて無くなればいいさ。

僕もホワイトカラー労働者の端くれでね。つまり僕は会社から不労所得を得ている。不労所得を得ている身なので、家で子どもの世話をするという実質的な仕事に携わる妻に頭があがらない。あと、駅のトイレを掃除してくれるおばさんにも、インドネシアの農民にも、船乗りにもね。

僕はある意味で有閑階級の三流貴族だ。都市でピンハネして不労所得を得ているのだから。月から金まで社交界に出かけて、くたびれているけれども。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!