自由と平等は対立する概念ではない

「自由か? それとも平等か?」という対立を想定されることが多いこの2つの概念。

あたかも、平等な社会なら能力のある人が活躍のチャンスを奪われ苦渋を舐める事態に直ちに帰結し、自由な社会なら能力のある人とない人の格差が必ず発生するかのように想定されている。

もちろん、そんなわけがない。

自由に能力を発揮できて、尚且つ平等という事態は十分にあり得る。

友達とバーベキューに行って、それぞれの能力に応じて車を運転する人もいれば、火を起こす人もいて、食材を調達する人もいて、あまり活躍しない人もいて、それでもみんなが同じ量の肉を食うことは、なんら特別な事態ではない。

この仕組みを社会全体に拡大できない理由は、特にないように思える。

「努力しても金にならないなら努力しなくなり、社会が成り立たなくなる論」も、まぁ一理なくもない。ただ、そもそもこれは前提が間違っている。

その前提とは、「今の社会は努力した人や能力がある人が金を稼いでいる」という前提だ。

今の社会は、そもそも頑張っている人や能力がある人が金を稼いでいるわけではなく、金を稼いでいる人のことを「能力がある」とか「社会に貢献している」と見做しているだけだ。

営業職と、そのサポートに回る事務職がいて、たいてい事務職の給料は安いのだが、1つのプロジェクトに対する貢献度を測る客観的な基準は存在しない。もしかしたら、事務職のサポートの方が売上に貢献しているという可能性もあり得る。ならば、事務職の給料が安いのは、単なる習慣や政治によるものだ。

事務職は稼げなくても頑張っている。営業はもしかしたら頑張っていないかもしれないけど金を稼いでいる。別に努力する人はするし、しない人はしない。ただ、それだけだ。

ソ連の失敗を持ち出して僕の議論に反論する人もいるだろうが、そもそも計画経済は自由ではないのに平等を目指したものだ。自由でないなら、能力を発揮できないのは当然で、ならば社会が伸び悩むのは当然だ(それでいて、別に平等でもなかった)。ならば、「自由かつ平等な社会がどうなるか?」という実験は、国家レベルで行われたことはない。

もちろん、ローカルレベルならいくらでもある。イヌイットの社会も、ウィキペディアも、Linuxも、ティール組織も、そんな感じだ。

ソ連の失敗で僕の議論を反論する人にはギリシャとアルゼンチンを挙げて「ほら、自由競争の資本主義は失敗するよね?」という反論をお見舞いしよう。「スターリンや毛沢東がゴリゴリのネオリベだったら上手くいったと思うか?」という反論でもいい。

要は「自由と平等が対立する」という言説は、格差を正当化したい人が押し付けるイデオロギーに過ぎない。つまり「自分たちの富は自由競争の結果得た正当なものであり、この富を奪うことは社会の崩壊を意味する」という意見を僕たち貧民に押し付けられているのだ。

この世界では自由競争が徹底されているわけではないことは誰でも知っている。利権と独占と政治。これらは別に「資本主義の真の精神からの逸脱」でもなんでもなく、資本主義社会の当然の帰結だ。そうした方が儲かるのだから。それなのに、あくまで利権と独占と政治はイレギュラーであるかのように扱われ、今の社会システム自体に反論する人は少ない。

拝金主義はこの傾向を後押しする。「優秀な人は金を稼ぐ。なぜならば、金は誰しもが欲しがるものであり、それを手にしているということは優秀だからだ」という議論と上手く合流できるからだ。

なんにせよ自由競争のイデオロギーは宗教じみている。事実として実現していないものを、あたかも実現しているかのように見なすのは、「これはキリストの血だ、肉だ」と言っているのと変わらない。

僕は自由で平等な社会がいい。誰からも搾取せずに、それでいて自由。働かないもよし、働くもよし、ただ社会に有り余る富の分前に預かれて、気が向けば誰かに貢献する。そんな社会だ。

誰しも家族や友達に対しては、そんなふうに振る舞う。それを社会全体に拡大すればいいのだ。

今の社会は、善意を組織化するという意味では、全くもって非効率だ。農家が馬車馬のように働いて生み出された食べ物はチェーンで閉じられたゴミ箱の中で腐り、服は砂漠に放り投げられる。

知り合いの60代の夫婦は孫がいないが故に、僕の息子に対して無限にお菓子を与えようとする。善意を向ける先がないからだ。それはもちろんありがたいことなのだけれど、この善意がもっと社会のみんなに向けられればもっと良い。

他にも、余っている善意ならいくらでもある。僕の両親も、僕のおじいちゃんおばあちゃんも、無限に息子にプレゼントしてくれる。

結局、人間は誰かに貢献したくてたまらないのだ。それなのに、貢献を許されるのは家族や知り合いに限られる。

パチンコを打ちに行く人は、大抵、儲かった日は周りに奢ってくれる。金が欲しいのか、いらないのか、全く意味不明だ。

競争しなくたって、人は誰かのために頑張る。ならば別に競争だけを美化する必要はない。競争が楽しいのも事実だが、別に競争の結果で富を分配する必要もない(友達とスマブラを対戦するときに金を掛けていなくても、別に楽しいし)。

貢献が義務化すると搾取になる。だから、誰しもが自由に貢献できるようにするといい。

そんな社会がどうやって実現するのか。僕はベーシックインカムがその第一歩になると思っているけれど、まぁやり方は色々あるだろうね。

最終的に金という存在がなくなるといい。ぜひそんな社会を見てから死にたいものだが、あと何年かかることやら。

話があっちこっち行ったが、ともかく自由と平等が対立するという言論は、搾取関係を正当化するための言説に過ぎないということだけ、覚えて帰って欲しい。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!