洗脳されるのは、いつだって他人

馬鹿な他人は、インターネットに、SNSに、監視資本主義に、メディアに、日教組に、政治家に、新聞に、ブラック企業に洗脳されている。

自分は違う。感情論に流されず、常に論理的に考え、どんな言説も、自分の中で咀嚼した上で判断を下す。決して、世論に流されることはない。世論と同調することがあっても、それはたまたま自分の意見が一致しただけだ。

‥多かれ少なかれ、誰しもがそのように感じているのではないだろうか?

そもそも、自分のことを理性的でないとか、合理的でないとか考えるのは、不可能だ。

非合理的な行動をとっていると自覚している場合であっても、そうせざるを得ない状況であるからそうするわけであって、それはつまりその状況を鑑みれば合理的ということになる。

一方で、他人の心の中を覗くことはできない。そこにどんなロジックがあって、どんなメカニズムが働いて、実際の行動がアウトプットされているのか。外からは観察することはできない。

他人は常に自分が知らないロジックで行動するが、その一挙手一投足をいちいち他人に説明したりはしない。ならば、一見してそのロジックを理解できない場合、それは非合理的に見える。

誰かに操られているのではないか? 世論に踊らされているのではないか? 状況がわかっていないのではないか?

そうかもしれない。だが、誰だって馬鹿ではない。デカルトが言うように、理性は万人に平等に与えられているのだ。

馬鹿なんていない。他人を馬鹿だと思い込むヤツがいるだけだ。往々にして、世の中のトラブルは、他人を馬鹿だと思い込むことで起きているように思う。

しかし、それも仕方のないことだ。だって、普通に生きていれば、他人が馬鹿に見えて当然だからだ。

じゃあどうするべきなのだろうか?

まずは他人が馬鹿ではないことを理解することだ。他人には他人のロジックがあって、それは自分のロジックと同じように熟考を経たものであり、同様に価値があると認めることだ。

ブレイディみかこが言う「他人の靴を履く」とは、こういうことなのだと思う。

同時に、自分が思っている以上に、自分は周囲の影響を受けて意思決定をしていることも知るべきだろう。常識だと思い込んでいることが、いかに周囲によって洗脳された思想なのかを知ろう。

つまりは勉強しよう。そして他人と話し合おう。僕は、今日もそうやって生きていきたい。

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