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頼むから子どもにおもちゃを売らないで

たいていの親ならば、おもちゃとは子どもが遊ぶため道具ではなく、騒いだ子どもを黙らせるための道具であることを理解している。

子どもはファミレスのレジに並べてあるちゃちなおもちゃが欲しいと延々と駄々をこね、周囲の客の目を気にした親は渋々購入するも、そのおもちゃは帰りの車の中でほんの少し遊ばれる程度で、家に着く頃にはもう忘れ去られる。そしてまた子どもは新たなおもちゃを欲しがっている。故に以下の法則が常に成り立つ。

おもちゃが欲しいと駄々をこねる時間>おもちゃで遊ぶ時間

その結果何が起きるのかといえば、家がプラスチックのガラクタで溢れかえるという事態だ。おもちゃ箱は増やせども増やせども溢れかえり、親は子どもにバレないようにこっそり捨てたり、物置の奥底に隠したりする(子どもはすぐに飽きるくせして、捨てた後くらいに「青色の飛行機どこ?」と思い出したりするので、捨てるおもちゃも慎重に選ばなければならない)。こんまりが子ども相手に匙を投げたのも理解できる。

渇愛という言葉の意味をこんな風に噛み締める日が来るとは思わなかったよ、ブッダよ‥。

このプロセスで掘り返された化石燃料の総量があれば、世界中の貧しい子どもたちに電気と食糧与えてもあまりあるほどだろう。では、それだけのメリットや教育効果を僕たちは受け取っているのだろうか?

結論を言えば、受け取っていないと僕は考える。そして僕は子どもにおもちゃをほとんど買い与える必要はないと思っている。なぜなら、子どもにとっては世界の全てが潜在的なおもちゃだからだ。

3歳の息子は、親戚がウン万円で購入したおもちゃに見向きもせず、ティッシュの空き箱でトンネルを作ったり、ラップの芯をマイクに見立てて延々歌ったりする。10分500円のプレイルームの中では退屈そうにしていたくせに、芝生を延々ゴロゴロするという遊びを2時間くらい続けたりする。

大人は遊び方を指定されることに慣れているからか、子どもの遊び方も指定しようとする。だからレジャー施設のように大して楽しくないものを我慢しながら楽しませたり、おもちゃメーカーに指定された通りに遊ばせたりすることが道徳的に正しいことだと思い込んでいるのだ。

当たり前だが、遊び方を発明する方が楽しい。そして金もかからない。僕は金を稼ぐ方法よりも、金を使わずに楽しめる方法を子どもに伝えたいのだ。

ならば、ちゃちなおもちゃはいらない。ファミレスのレジに置いてあるような、ガチャガチャから出てくるような、ハッピーセットについてくるような、ああいう類のおもちゃは特にいらない。

もちろん、ウォーターサーバーを売って金を稼ぎたければ、すみっコぐらしの風船を膨らませてイオンモールで待ち伏せするのが一番だ。金を稼げるなら、すみっコぐらしの風船がその後どうなるかなんて気にする必要はないわけで、要するに資本主義が悪いよ、資本主義が。

まじでどうすんねん、このおもちゃの山‥消防車何台あるねん‥2人目女の子やねん‥。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!