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ポリティカルコレクトネスとアーティスティックコレクトネス

大きな声では言えないが、実写版『リトル・マーメイド』のアリエルが可愛くて好きだ。正直、日本人とか白人の美人に見飽きてきたところに、黒人っぽい美人を持ってこられるとドキッとするよね。

「常識的に考えてアリエルは白人やろwwポリコレwww」という声も多いようだが、僕個人としてはそこまでアリエルに深い思い入れはないため、そこまでイメージとのギャップもない。それに、アニメや漫画の実写は、絵に似せようとすればするほど不気味の谷を感じてしまうことを僕たちはハガレンやBLEACHで学んでいる。逆に少し離れるくらいの方が、リアリティがあるのだと、僕たちはとっくにワンピースの実写版のキャストを見て学んでいる。

ポリコレによって雰囲気がぶち壊されることを憂う声は多い。だが、僕はこの現状をそこまで否定的に捉えていない。なぜなら芸術とは制約のスクラップ&ビルドによって進歩するからだ。

メロウ系のラップが登場した頃、「あんなのはヒップホップじゃない」と散々言われ倒した。当時は黒人のギャングスタが悪そうな声で悪そうなことを言う音楽こそがヒップホップなのだという制約があったのだ。しかし、その制約を壊したところから新しい音楽が登場した。そして、2010年代にらそこら中がチルなダウンビートで溢れかえった。いまやメロウ系のラップには既視感しかない。次も誰かに破壊してもらわなければ、新しい音楽は生まれない。

ポリティカルコレクトネスが制約として存在するのと同じように「アリエルは白人やろ」という固定観念も「アーティスティックコレクトネス(芸術的正しさ)」とでも呼べるような制約として存在する。

アーティスティックコレクトネスに固執しすぎる姿勢は、宗教的原理主義として芸術の停滞をもたらす可能性すらある。スタイルウォーズに明け暮れるラッパーやロックスターを見ていればそのことは明らかだろう(もちろん、ジャンルの壁があるからこそ、ジャンルの壁を壊す価値があるわけで、その緊張を維持するためにスタイルウォーズに勤しむ時代遅れのミュージシャンたちは一役買っている)。

一方でポリティカルコレクトネスはアーティスティックコレクトネスを破壊する原動力になり得る。ポリコレが存在しなければ、「アリエルが黒人だったらどんな映像にすればいいだろう?」などと誰も考えなかったはずだ。映画はまだ公開されていないが、予告映像でアリエルのビジュアルと映像美の組み合わせを見たとき僕は「成功だ」と感じた。

もちろん、ポリコレが制約として停滞をもたらす恐れもある。だが、単に「有色人種を出せ」とか「ブスを出せ」とかいうレベルの制約であり、手法そのものに制限を課すものではない以上、アーコレ(語感が悪いけど、暫定的にw)に比べるとお節介の度合いは低く感じる。

芸術に対する程よいスパイスとして、ポリコレを活用すればいいと思う。まぁ要するに、そんな目くじら立てずに気楽に楽しもうや、ということだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!