見出し画像

再読の恥辱を乗り越える

昔読んだ本を読み返す。当時の書き込みが目に入る。著者に対して、汚い字で一丁前にツッコミを入れていたり、疑問を投げかけていたりする。

その内容が今見ても適切なものであればなんの問題もないが、そうでないことの方が多い。つまり、恐らく著者の本来の意図とは異なる浅薄な解釈に曲解し不当に攻撃をしていたり、今から思えばどうでもいい部分にこだわっていたりするのだ。

おい、俺。恥ずかしいから、やめてくれ。

中学2年生のときに作ったオリジナルゲームのシナリオを読み返すような、小6のときに書いたオリジナル小説を読み返すような、そんな恥ずかしさを感じる。いや、まだこれらのケースなら「誰しもそういう黒歴史ってあるよね〜笑」と誤魔化すことができるので、まだマシかもしれない。

なんせ、この本を読んだのはせいぜい3〜4年前だったりするのだ。既に20代後半。小難しい本を読んで、あれこれと浅薄なツッコミを入れて「自分は単に受動的な読書ではなく、主体的な読書を行っているのだ」と悦に入っている。今思えば痛い。

再読しながら、コッソリと書き込みを消していく。最近読んだ『都市と都市』という小説では、殺された女子大生の本の書き込みを、警察が熱心に読み解いていくシーンがあった。「なんというプライバシーの侵害だ」と僕は思った。こんなことをされるのであれば、恥ずかしい書き込みを消し切るまでは、僕は死ぬわけにはいかない。

だが、あまり悲観的になる必要もないのかもしれない。恥ずかしさを視界の脇に追いやってみれば、それはある意味で僕自身が更新されていっていることの証拠であるように見える。

わからないことがわかるようになった。解釈能力が高まった。この3〜4年でそれだけの更新があったのだ。これは多分、良いことだと思う。

大人は勉強しない。変化もしない。ただ同じことを繰り返す。僕だって、常識と習慣に身を委ねる快感が嫌いなわけではない。

それでも僕は新しいことを知りたいし、自分の考え方を更新したい。それはYahoo!ニュースを見つめることでは達成できない。意味不明な人が書いた本を読んだりして頭の中をぐちゃぐちゃにする。そこに実世界であれこれと経験してきたことを放り込んで、価値やら結論やらなんやらを取り出してくる。そういう営みを繰り返していたい。プロセス自体が楽しいからだ。

僕の家の蔵書は一体何冊になるのだろうか。1年半ほど前に「これを埋めるのには一生かかるだろう」というくらいのクソでかい本棚を作った。それがもう8割方埋まってきた。それぞれの本には書き込みが加えられていて、黒歴史化するのを今か今かと待ち侘びている。

そして今日も、僕は本を読み、書き込みを加える。それはいつか黒歴史へと生まれ変わり、未来の僕を恥じ入らせるのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!