見出し画像

嘘をつかれるよりも、嘘をつく方がストレスになる

仕事をしていると社員一同で口裏を合わせて客に嘘をつく場面が少なからずあると思う。そういうときに僕は「もう正直にやりませんか?」という話をすることが多い。すると、他の社員は僕のことを世間知らずのおぼっちゃま扱いするか、素晴らしい理想を持った正義漢扱いする。

そのどちらも的外れだ。僕は単に嘘をつくことがストレスに感じるから嘘をつきたくないだけだ。嘘をつくと罪悪感を覚える。辻褄を合わせるために考えなければならないことが多い。バレたときにどんな顔をして、どんな顔をして言い訳をすればいいのかを考えなければならない。そして、未来永劫、その話題が持ち上がるたびに嘘を突き通さなければならないという負債を背負うことになる。こんな負債は背負いたくない、さっさと解放されたいと思うのが普通ではないだろうか?

それに騙し通せているような嘘なんて、実はバレても大した影響はないことの方が多いというのが、僕の31年間の人生における結論だ。逆に嘘をついていることによる心理的な不利益の方が高くつく。だったら、なんてことのない素振りで曝け出した方がいい。正直に話してヘラヘラしておけばいい。そうした方が気分は良好で、相手との距離も近くなる。

サイコパスではない普通の人はチンケな利益のために不道徳なことをするのに生理的な嫌悪感を覚える。自販機のお釣りのところに10円玉が忘れてあったとして、それを何も気にせず持って帰ることができる人は少ないと思う。悪いことをするのは単に嫌な気分になるのだ。

これは偽善でもなんでもなく、単に何だか嫌な気分になるからなのだ。もし警察と刑務所がなくなったら即座に万人による騙し合いと殺し合いが始まるだろうと想定することが常識をわきまえた大人の条件であるとする風潮は根強く、その風潮のせいか、嘘をつくことなど歯牙にも掛けない人が大半であると前提されるケースは多い。そして自らも嘘をつくことをなんとも感じていないかのように偽悪的に振る舞うことが、その場の空気においては道徳的だとみなされる。僕たちの社会の道徳は偽悪的なのだ。

僕はもっと本音を曝け出したい。嘘をつくのはめんどくさい。気持ち悪い。自分が嘘をつくくらいなら、相手に嘘をつかれている方がマシだ。善でも悪でもない。ただそこに僕の欲望があるだけ。僕は欲望に従って生きていきたい。

というわけで、嘘はつかないでおこうと思う。極力。極力ね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!