見出し画像

言葉の自動機械は存在するか?

他人がボットのように見える気持ちは理解できる。

自分の頭で自由に思考していると思い込みながら実際のところは刷り込まれた観念を真実であると信じ込み、世間に流布するクリシェを繰り返すだけの人を見れば「こいつは言葉の自動機械だなぁ」と感じるのが一般的な感覚だろう。

しかし、本当に自動機械なのだろうかと言えば、もちろんそんなわけがない。彼だって多かれ少なかれ選択肢を持って意思決定をしながら生きていている。「コーラにするか、コーヒーにするか」といったレベルの話だけではなく、同窓会には参加すべきか、格安SIMを使うべきかどうか、積み立てNISAを始めるべきか、賃貸でやり過ごすか持ち家を買うか、子どもを公立に通わせるか私学に入れるべきか、などなど、あれこれ思い悩んでいるはずだ。

往々にして他人とは馬鹿に見えがちなものである。自分の言動ならそこにどんな思考プロセスがあるのかは理解できるのに対し、他人の言動ならそれがわからず「馬鹿だからああいうことをしたのだろう」となりがちだからだ。

それと同じことがボットのような他人を見たときに起きているのだろう。「あー、はいはい、言葉の自動機械はそんな風に言いがちだよね。それに対して俺は事実を冷静に見極めて自由に思考しているが‥」というわけだ。

例えば、仮に僕が賃貸派だったとすれば、住宅ローンを組んで持ち家を買う人を見たとき、「男なら一軒家を持つべき」という刷り込まれた価値観に従うだけの愚かなマリオネットに見える。しかし、その人自身はあれこれと考え抜いた上で、一周回って古き良き価値観に従ったのかもしれない。彼を言葉の自動機械扱いする権利が、誰にあるだろうか?

これは合理性信仰の弊害でもあるだろう。合理性信仰の教義によれば、合理的に考えれば賃貸という結論に至るはずであるのに、持ち家を買う人は古臭い価値観に縛られ合理的な思考ができていない、ということになる。

当たり前だが、合理性にはなんらかの無根拠の前提を必要とする。「一国一城の主になる」を無根拠の前提に置いたなら、持ち家を買うことは合理的なのだ。自分と違う結論にたどり着く他人は、単に価値観が違うだけであるということが多い。にもかかわらず、合理性を持っていれば誰しも同じ結論に辿り着くと考えるのが合理性信仰である。

さて、合理性信仰とも相まって、もはや言葉の自動機械的な言説は、それ自体がクリシェ化していて、ミイラ取りがミイラになっているようにも見える。「大衆は馬鹿だから何も自分で考えない。だから民主主義はクソだ(俺のように自由な思考ができる個人が多数派だったなら、全てがうまくいくのに‥)」的なことを言うオッサンはX上に掃いて捨てるほどいるだろう。

僕が言いたいことはもっと他人の価値観を慮っても良いんじゃないか?ということだ。馬鹿馬鹿しいことをしている他人を見て、「あいつらは馬鹿だ」と即座に結論づけるのではなく「彼には彼なりの考えがあるはずだ」と考えること。これは殺人を楽しむサイコパスを肯定することにはならない。殺人を楽しむという価値観があることを理解することと、殺人を肯定することは違う。

もちろん、この記事自体もミイラ取りがミイラになっている可能性もある。つまり、人々は皆「彼には彼なりの考えがあるはずだ」と考えているのに僕が早とちりして「あいつらは馬鹿だからすぐに『あいつは馬鹿だ』と結論づけるよねー(それに対して僕は自由な思考をしているわけだが‥)」となっている可能性だ。

そうだった場合は、まぁ自戒の記事ということで。甘んじてブーメランを受け入れるとしよう。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!