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『チャーリーとチョコレート工場』ってクソ映画だと思うのは僕だけ?

この映画から読み取れるメッセージはこうだ。

余計なことをせず言うことを聞いておけ。特に親の言うことは聞いておけ」である。

このパターナリズム全開のメッセージを伝えるために、この映画のシナリオはかなり無理をしている。こんな恣意的なストーリーで誰がパターナリズムを受け入れるというのだろうか?

最終的にウィリー・ウォンカはお父さんと和解してハッピーエンドだ。お父さんは息子に対してキツく当たっていたが、実は陰から応援していて愛していた‥みたいな話なわけだが、だからと言って児童虐待の罪があっさりと許されるわけがない。

父親は大して歯並びも悪くない息子にキャッチャーマスクのようなクソダサい上に口を閉じることもままならない矯正器具の着用を強制し、お菓子の類を一切禁止。息子が頑張って集めたお菓子を即座に暖炉で燃やすという、虐待行為を繰り返していた。

これは流石にかわいそうすぎる。

おまけにチョコレート職人を目指すと言って家出した年端もいかない息子を探すわけでもなく放置し、挙げ句の果てに引っ越しをして息子が自ら帰宅する道すら閉ざして、知らん顔。しかも帰ってきた息子の顔を見ただけでは本人とは気づかず、歯を診てようやく気づく始末。

ちょっとやそっと新聞の切り抜きを集めていたくらいで全てが水に流せるわけがない。

こんなクソ親をみせられて「家族の絆ってすごい!」みたいなメッセージを伝えられてもプロパガンダにしか見えない。血縁や家族とはそもそも社会的に生み出された共同幻想なわけだ。本来は、好きに縁を切ったり、繋いだり、形を変えられる。それを運命づけられたものだと押し付けられるなら、宗教的なプロパガンダだと結論づけずにいることは難しい。

そして、明らかに「こうなっちゃダメだよ」リストとして用意された子どもたちの存在も遠回りにパターナリズムを礼賛していた。

彼らは親の躾がなっていないからクソガキになった。要は親がクソだった。親たちは子どもたちが危険に向かおうが止めようとせず、リスに食い殺されそうになっていても腰の位置にある柵すら乗り越えようとせずボケっと眺めていた。「娘がブルーベリーになったら競争に勝てない」などと受験産業に染まり切ったようなクソ発言もしていた。

ここから読み取れるのは「クソ親の言うことを聞かずに正しい大人の言うことを聞きなさい」という子どもたちへのメッセージだろう。

そもそもこのレベルのクソ親はなかなか存在しない。つまりこれは逆説的に「こんなクソ親の元に生まれなくてよかったね。だから君は親の言うことを聞こうね」というメッセージを発している(これはウィリー・ウォンカがクソ親父と仲直りしていることとは矛盾する気もするが、それは置いておこう)。

要するに「お前らはまだマシ」というパターナリズム特有のメッセージなのだ。「うちであかんかったらヨソでも通用せんで」みたいなアレだ。

それにしても、正しい大人の言うことを聞かなければダメと言いたいのはわかるが、そこまで酷い罰を与える必要があったのかは疑問だ。

彼らはクソガキだったが、ギリ許せるレベルのクソガキだろう。

チョコレートの川を見せておいて川に入るなとか、ガムを差し出されてガムを食うなとか、可愛いリスを見て捕まえようとするなとか、テレポート装置を見て遊ぶなとか、あの年頃の子どもからすればそれなりに無理難題だ。世界一番別な場所に招待された、たった5人の子どものうちの1人になったのだ。多少、舞い上がることもあるだろう。

多少の罰があるのは仕方ないとしても、それで全身をブルーベリーにされたり、原型を留めないレベルで薄く引き伸ばされるのは、いくらなんでもやりすぎである。チョコやゴミまみれになるだけなら良いとしても、他の2人は取り返しのつかないレベルの損傷を受けていて、その後の経過は描写されない。そのくせ「あー、性格悪いし仕方ないよね」で済まそうとしている。いやいや、スルーしてたまるか。

そして、チャーリーの家族の存在は、パターナリズム的でもあり、ネオリベ的でもあった。

まず気になるのは年寄り4人の存在だが、彼らは年金を受給している気配もない。『チャーリーとチョコレート工場』は恐らく1960年代のイギリスという設定っぽいが、当時の制度下でも何らかの公的扶助を頼れる水準にいることは間違いないだろう。

にもかかわらず、彼らの家族は国家に頼ろうともしない。そして両親はおんぶに抱っこの寝たきり老人4人を文句も言わずに養っている。おまけに恐らくチャーリーは義務教育すら受けずに靴磨きの仕事をしている。どう見ても極端な緊縮財政のディストピアである。

なぜこうなったかの説明は「チャーリーの父親が歯磨き粉の蓋を閉めるなどという単純作業しかできないバカだから」である。

彼は機械化によって職を失った後、最終的に機械のメンテナンスの仕事についてハッピーエンドを迎えるが、この展開が伝えるメッセージはこうだ。

「労働塊の誤謬を信じるバカな貧困者は、ストライキに精を出すんじゃなくて努力して自分の力で仕事を勝ち取れよ」である。つまり「努力できないバカならば、吹き曝しの小屋で年金ももらえない老人とキャベツスープでも啜ってろ」というわけだ。

チャーリー一家から読み取れるメッセージは、血縁を病的なまでに信仰した上での自己責任論の押し付けである。

おまけに資本主義批判っぽい出立ちで登場した人格を剥ぎ取られたウンパルンパたちの行く末は結局有耶無耶で、「まぁいいか」と流されている。彼らはカカオ豆で自由を売り払い、「わけもわからないままオールを漕ぐ」ような、人とは思えない仕事をさせられ、なんの救いもないままエンディングを迎える。彼らが何を感じているのか、全くわからない。何も感じていないようにも見える。「カカオ豆がもらえるから良いでしょ? だからちゃんと工場主の言うことをきこうね」というメッセージは見え見えである。

それでいて動物虐待問題を憂いているような描写も挟まれている。これはアリバイ作りと見ていいだろう。「ここまでやったら酷いよね、でもここまでじゃないから我慢してね」というわけだ。

総じてこの映画はパターナリズム的でネオリベ的だ。

続編を観に行くために予習したのだが、やっぱり辞めだ。

こんなクソ映画の続編を、誰が観るか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!