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ホモ・ネーモによる2030年の未来予測

断言しよう。2030年には、2040年の未来予測をしている人で溢れかえっている(出オチ)。

と言っても、最近、2030年だとすぐに答え合わせされてボロが出ると考える慎重な人たちは、既に2040年とか、2050年の未来予測を始めている。

こんな風に。

成毛眞は2040年を予測するというチキンっぷり。「天才」を自信満々で自称する成田悠介や斉藤幸平を見習うべき。
苫米地英人は2050年には90歳を超える。「はて、そんなこと言ったかのぅ?」で逃げ切る算段だろう。

どうにも僕たち人間は、未来を予測したい生き物らしく、同時に「未来は予測できる」と信じたがる生き物らしい。

もちろん、定義上は、誰にでも予測は可能だ。

よ‐そく【予測】
読み方:よそく
[名](スル)事の成り行きや結果を前もっておしはかること。また、その内容。「10年後の人口を―する」
Weblio国語辞典

「おしはかること」そのものは、誰にでもできる。それが正解か不正解かは別として。

これが「予知」となれば話は変わる。

よ‐ち【予知】
読み方:よち
[名](スル)何が起こるかと前もって知ること。「異変を―する」「―能力」
Weblio国語辞典

この2つを比較してみると、「予知」は限りない尊大さが含まれていて、「予測」には一定の謙虚さが含まれていることがわかる。だから「未来予測」と書かれた本はビジネス書コーナーにあり、「未来予知」と書かれた本はオカルトコーナーにあるのだろう。

とは言っても、わざわざ予測をしているのは、それが「当たる」と思っているからするわけだ。「未来予測」と書いた本を買う人も、同じように思っていることだろう。

もちろん、完全に未来を知ることは不可能であることは誰もが知っている。それでも本を書く人や購入する人は「とは言え、ファクトを揃えて論理的に考えれば、大まかな予測は可能だ」と考えているはずだ。

しかし、オッカムの剃刀が「頼むから単純な法則に従ってくれ!」という願望に過ぎないことからも明らかなように、未来を知ることが可能であるというのも願望に過ぎない。「十分な根拠とは、そのように見える根拠」とヴィトゲンシュタインが言ったように、占い師を信じるか、ビジネス芸人を信じるかは、程度の差でしかないのだ。

僕はここで安易にアラン・ケイやカポネ・ギャング・ベッジの名言を引用しながら、「だから、未来予測なんて意味ない! 未来をつくろうぜウェイ!」と主張したいわけではない。占い師がF1層に必要とされているように、ビジネス芸人による未来予測もビジネスエリート(もどき)には必要だ。

それは一種の精神安定剤なのだろう。「出たとこ勝負で何とかなるっしょ」というマインドを持たない人は、「未来は予測できてそれに準備すれば対処できるから大丈夫(未来を予測できない凡人どもは、時代の変化に取り残されて失業し、一生を個室ビデオ店の受付やパチンコ屋の清掃でもしながら過ごせばいいさ)」と思い込みたいはずだ。

その場合、必ずしも予測の答え合わせは求められない。答え合わせをする人は「やっぱこの人すげぇ」と持ち上げたい信者か、「コイツ全然当たってへんやんw」と貶したいアンチのどちらかである。予測の答え合わせをして、より精度の高い予測に繋げよう‥と考える人はいない。

実際にやってきてしまった現在には、もうたいして魅力はない。現実になんとかなっているからだ。「なんとかなるかわからない」という不安があるからこそ、未来には予測するだけの価値がある。

実際のところ、未来はなんとかなってしまうことの方が多い。もしかしたら、第三次世界大戦が始まって、なんとかならない未来がやってくるかもしれないが、太平洋戦争でも日本の人口は5%くらいしか減らなかったのだ。80%くらい減ったんじゃないかというくらいに僕たちは教育されてきたのだが、実際は5%くらいだ。後戻りできない怪我なんかもあっただろうが、95%の人々は実際なんとかなったわけだ(もちろん人の命を数では測れないので、このデリケートな話題はこれくらいにしておく)。

ポケモンをやっている人なら、岩石封じが外れる確率と考えてみよう。「岩石封じが外れたら死ぬ」と言われて岩石封じを打つのはかなり不安だと思うが、そもそも岩石封じを打たなければならない状況になるというのが、日本を巻き込んで第三次世界大戦が始まることが前提なのだ。岩石封じを5回連続で外すような不運なんて、そうそう起こらないだろう(たまに起こるが)。

だから実際はほぼ、なんとかなる。そしていつか死ぬ。どうせ予測したところで外れることばかりなのだから、出たとこ勝負でオッケーなのだ。

「じゃあco2ばんばん排出してアマゾンばりばり切り開いて牛肉食いまくって経済成長ウェイ!」という話になりがちなのだが、それはまた別の問題だと思っている。僕たちが経済成長を目指すのは一種の苦行だ。なぜなら、既にモノが飽和している時代に、必要のないものを売りつけるために、僕たちは右往左往しているのだから。

「もうモノ売らなくてよくね?」という発想に切り替えることは、禁欲でもなんでもない。むしろ欲望の解放だ。週休4日、週15時間労働でGDPガン無視で僕は生きていきたい。

そのためにまずは後先考えずにベーシックインカムをやるというのが、あいも変わらず僕の主張だ。ぶっちゃけ、なんとかなるっしょ。

未来を予測して賢く振る舞わなければのたれ死ぬような時代になんてならないと思う。もし、そんな時代になるのだとすれば、馬鹿げている。そうしないで済むような選択肢はきっと人類はいくらでも持っているはずだ。

その方向であれこれやってみようよ、と思う。競争するのはめんどくさいし、効率が悪いのだよ。

僕はアンチ資本主義というより、どちらかと言えばアンチ市場主義だ(経済とやらを協力関係とみなすか、競争関係とみなすかで、人の経済思想は2分されると思っている)。市場というメカニズムの下では、他のライバルたちを路上生活に追いやるために、自分たちで利益を独占し、それに成功すればフェラーリに乗ったりする。僕はママチャリでいいので、競争の焦燥感なしで、のんびり暮らしたい。

未来なんてクソどうでもよくなるような、馬鹿みたいに飯を食って、馬鹿みたいに遊ぶような、そんな社会がいい。それって最高だと思うのだけれど、どうして人類はやらないのだろうね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!