馬鹿とは誰のことか?

僕は最近、職場から40分ほどの場所から、1時間ほどの場所に引っ越した。

これを知って「ぜったい職場近い方がいいわぁ。職場遠かったら通勤大変やのに、なんでそんなとこに引っ越すん? アホやなぁ」という反応をする人がたまにいる。

僕は、こんな人とは話をしたくない。

この人の頭の中では、「コイツは馬鹿だから、通勤に時間がかかったら大変ということが理解できなくて、血迷って遠い場所に引っ越した」ということになっている。

もちろん、そんな筈がない。

小学校を卒業できないような馬鹿であっても、「時間がかかることは大変だ」ということが理解できないはずがない。

仮にそれが理解できないほどの知能レベルなのであれば、家を借りたり買ったりするような契約が満足にできるとは思えないし、社会で仕事を得るようなこともむずかしいだろう。

ならば、「大変であることを理解していても尚、遠い場所を選ぶなんらかの理由がある」という考えに至って当然なのだ。

もちろん、大して興味のない話題なのだとすれば、わざわざそこまで配慮が行き届くことはないのかもしれない。ただ、そうなのであれば、わざわざ突っかかってくる必要もない。スルーすればいいのだ。

話題に対して興味を示しながらも、事実からカンタンに推測される相手の意図に思い至ることがない。

こういう人のことを、僕は馬鹿だと呼んでいる。馬鹿とは、他人を馬鹿だと思い込んでいる人だ

(まぁ、これはブーメラン構造になっているのだが、僕は例外ということで)

他人のことを馬鹿だと思っている人は、とにかく厄介だ。なぜなら、こちらがなんらかの説明を行ったとして、それが理解できない内容だったとすれば「馬鹿がなにか血迷ったことを言っている」と認識されてしまう。「馬鹿の言葉は、聞くに値しない」というわけだ。

ならば、どうなるか?

その人の意見が絶対ということになり、その人の意見に従う以外に選択肢がなくなる。こちらの意見は全く理解されないのだから。

あぁ、めんどくさい。

そういう人ほど分かりきっている一般論を振りかざして説教をしてくることが多い。でも、一般論は、誰しもが知っているから一般論なのだ。それに反する行為をしている人がいたとして、それは馬鹿だからなのではなく、一般論をじっくり検証し、その上で棄却しているからという可能性が高い。

しかし、残念ながら、「自分が信じている一般論が間違っているかもしれない」と思い至るのはむずかしい。

それは、自己を否定するにも等しい行為なのだ。

オブライエンはあらゆる意味で自分よりも大きな存在だった。自分がこれまで抱いた考えや抱く可能性のあった考えは、どれを取ってみても、オブライエンがずっと昔から知っていて、検証を加え、その上で棄却したものなのだ。彼の精神はウィンストンの精神を包摂していた。(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

この場面は、『一九八四年』の佳境、主人公のウィンストンが身体、精神の両面から徹底的に拷問を食らわせられるシーンだ。自分の知能や価値観を完全に上回る存在に出会ってしまい、その事実を突きつけられて、ウィンストンは最終的に気が狂って洗脳されてしまう。

自分の知能を完全に上回る存在を受け入れることは、それくらいの負荷がかかる行為なのかもしれない。

「勉強とは自分を否定すること」と確か哲学者の千葉雅也が言っていた(確か…)。きっと自分を否定できる人は馬鹿ではなくなる。否定できなければ、自分と意見の違う他人のことを「馬鹿だ」と言い続けるしかないのだ。

最近流行りの「多様性」なるものも、こういう文脈で理解すれば良いと思う。イスラム教徒のことを「馬鹿みたいなことを信じているが、まぁそういう人たちなのだから仕方ない。豚肉を抜いておこう」と、腫れ物に触るように扱うことが「多様性を認めること」なのではない。

「この人たちは馬鹿ではない」と真面目に受け取ることが「多様性を認めること」なのだ。

まぁ、そんなわけで、僕も馬鹿にならないうように気をつけようと思う。もしかしたら、僕が馬鹿にしている人たちにも、なにか深い意図があるのかもしれないという考えを心の片隅においておくとしよう。

多分ないと思うけど、もしかしたらあるのかもしれない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!