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価値の領域には踏み込まない【アンチワーク哲学】

資本主義に批判的な人は、価値の領域に踏み込みがちである。要するに「手作りの料理を楽しむべきであって、資本主義の権化であるマクドナルドなんか社会に必要ない」とか「ルイヴィトンが欲しいと思うのは広告に踊らされた偽物の欲望であって、もっと人間本来の欲求を追求しよう」みたいなことを言うのだ。

僕はよくその手のポジショニングをしていると勘違いされるのだが、実をいうと違う。僕はともかく人が欲望するのであれば、それは追求すればいいと思っている。それが人間らしい真の欲求か、広告に踊らされた偽物の欲望かなんて、区別する必要はないと思っている。人間が欲望を追求した結果、川が汚染物質まみれになったり、原生林が禿げ上がったりするなら、それはそれで仕方がないとすら思っている。

僕は常々、欲求と欲望を区別すべきではないと主張してきた。なぜなら、そもそも両者の区別は「俺が許可するかどうか」という基準でしかないからである。「小説はいいけど、ディズニーランドはダメ」「自転車はいいけどSUVはダメ」などという言説の根拠は、それ以外にない。

そもそもパンを食べたいと思うことすら、「本当にパンにする必要があるのか? 麦粥じゃダメなのか?」と問うことができる。麦粥を食う人にも「それは必要最低限のカロリーの摂取を超えた偽物の欲望なのではないか?」と問いかけることができる。つまり、ビッグマックと手作りの麦粥の間に明確な境界線が存在するわけではない。

だから、人が欲望するのであれば、「それは本当にあなたの欲求なのか? プロパガンダに植え付けられた偽物の欲望ではないのか?」とか「それは本当に必要なのか?」などと問う必要はない。それは余計なお世話なのだ。誰も自分がプロパガンダに騙された偽物の欲望を抱いているだなんて感じていないのである。そこに踏み込もうとすれば、毛沢東やスターリンのような支配者に成り下がるだろう。

ただし、僕はあらゆる人間が欲望を追求するのであれば、ルイヴィトンをコレクションしたり、川に汚染物質を流したりする人はほとんどいなくなると考えている。普通、逆だと思われているかもしれない。人間が欲望を追求するからルイヴィトンが売れて、川に汚染物質が流れるのだと。

しかし、川に汚染物質を流したい人などいない。重金属を川に垂れ流す男は金のために渋々したがっているわけであり、植林活動で同じだけの金が得られると分かれば即座にその仕事をやめるだろう。あるいは、川に汚染物質を流すことなく金を手に入れられる場合でも同様だ。

ルイヴィトンも同様である。ブランドはマーケティングで自らを過剰に飾り立てるわけだが、それを突き動かすのは「これからの時代はストーリー消費を促さないと生きていけない」といった焦りだろう。

「AI時代を生き残る」といった話題は示唆的である。多くの人はこれだけ物質的に豊かな時代でも、簡単には生き残ることができないと感じている。そして生き残るために鼻息を荒げながらブランディングとかWEBマーケティングといったキーワードを追いかける。マーケティング用語そのものもファッションアイテム化していて、ファッション業界が流行色を決めて流行らせるように、「次はタイパ消費が来る!」的な言説をビジネス芸人たちが流行らせている。それすらも生き残るためである。

ベーシックインカムによってなにもせずとも生き残れることがわかったなら、人は何を欲望するだろうか。そのとき過剰な広告とマーケティングでルイヴィトンを買わせようとする人がいるだろうか。ルイヴィトンで心に空いた穴を埋めようとする人がいるだろうか。

いるかもしれない。だが、それがどうしたというのか? 好きにすればいいのだ。

依然として川に汚染物質を流す人が現れるだろうか。多少はいるかもしれないが、今ほどにはいまい。環境問題はこうやって解決すべきなのだ。自由に欲望を追求できるなら、余計な労働でCO2を燃やすこともない。

そして人々は欲望のままに手料理をふるまい、畑仕事をし、ゲームをプレイし、小説を書き、昼寝する。金儲けをするためにストーリー消費云々と講釈を垂れ、フェラーリを乗り回す人がいたなら、彼は右翼の街宣車を乗り回す変人のような扱いを受けるだろう。それでも別に構わない。好きにすればいいのだ。もはや誰も彼の言葉を真に受けることはない。

とはいえ欲望は衝突することも事実。だが僕は欲望の衝突を道徳的な言明で回避するのではなく、感情のぶつかり合い解決したほうがスムーズだと思っている。「○○すべき」ではなく「○○したい」と「○○してほしい」をぶつけ合うのだ。

べき論のぶつけ合いで何かが解決した場面を、僕は人生で経験したことがない。「○○したい」と「いやだ」「しゃーなしやで」の方が、上手くいく気がしている(要するにNVCである)。

※このHPを見る限り、スピリチュアルでオーガニックなやばい奴らだという印象を抱かずにいることはむずかしいが、実はいいこと言ってる。要は「べき論をやめて感情をぶつけ合ったらうまくいくよ」という話だ。

脱線気味なのでこれくらいにしておこう。要するに僕は「ディズニーランド? うーん・・・ダメ! タピオカミルクティ? それくらいならセーフかな・・・」などという価値判定者になるつもりはない。それだけが言いたかったのである。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!