なぜ交通事故はこんなにも少ないのか?

この前、小学生の列に車が突っ込んだというニュースを観た。とても痛ましいし、被害者やその家族の悲しみは想像を絶するものだ。

だが、僕は不思議に思うことがある。これだけの数の車が走っているというのに、なぜ小学生の列に突っ込む車のニュースは年にたった数回しか見ないのだろうか?

日本には7662万台の車がある。毎日何十キロという高速で、それだけの数の鉄の塊が行き来する中を、630万人の小学生が歩いている。週に3〜4回くらい小学生の列に突っ込む車のニュースがやっている方が自然だとは思わないだろうか?

なぜ、こんなにも事故のニュースは少ないのだろうか?

もしかするとドライバーたちは、驚くほど信頼に足る集団なのかもしれない。

最近、家族を乗せて、車を運転する機会があった。

僕がほんの少しアクセルの角度を変えるだけで、ほんの少しブレーキの力加減を変えるだけで、大惨事を引き起こすという可能性に恐怖を覚えた。

さらに、周囲を走る何百人ものドライバーも、同じだけの潜在的な危険性を秘めていると考えれば、身の毛もよだつ思いだった。

後ろを走る大型トラックのドライバーの顔を、僕は見たこともない。彼の視神経が適切な情報を脳に伝え、脳から発せられる電気信号が彼の右足に伝わり、適切なタイミングと角度でブレーキがかけられるかどうかに、僕だけではなく妻や息子の命がかけられているのだ。

彼が居眠りをしていたらどうだろうか? 酒を飲んでいる可能性は? とんでもなく注意力散漫で脇見運転をしているとは考えられないか? イライラして人を殺したい気分になっているのではないか? 自殺願望を抱いてはいないか? 

どれも十分に可能性があることだ。しかし、普通そんな風に疑うことはない。

「彼は素晴らしい人格であり、責任感を持って運転に集中するに決まっている!」と、無意識のうちに信頼しているのだ。

なぜ、僕はこのドライバーをこんなにも信頼しているのか? 文字通り命を預けられるほどに。

一転して、普段の僕たちは他人をほとんど信頼していない。

営業ノルマがなければサボる。厳格な決済フローがなければ部下は適切な意思決定ができない。部下に自由な裁量を与えるのは危険だ。

こういう不信頼が前提となって、さまざまな社会システムが考案されている。毎週毎週会議が開かれ、売上予測を報告し、進捗を随時連絡する。計画との相違があれば誰に責任があるのかが追求されたのち、レポートにまとめられ、恭しくファイルに綴られる。

運転に例えるならば、毎日運転コースを事前にプリントアウトして提出させて、ドライバーが車線変更をするたびに上司の許可を取るようなレベルの官僚制が、社会にははびこっている。

これらの不信頼の根拠は思い込みだ。その誤ちが科学によって指摘されたところで揺るがないほどの強力な信仰がそこにはある。

往々にして人は、信頼されれば、信頼に足る行動を取る傾向にある。逆もまた然りだ(一応この現象にはピグマリオン効果とかゴーレム効果とかいう名前がついている)。

ならばとにかく信頼してしまえば、人々は信頼に足る振る舞いを始めるに違いない。

老子も言っていた。

其の政察察たらば其の民欠欠たり

うん、その通りだと思う。

もっと信頼してもいいのではないか? 運転しているときはあんなにも他人を信頼できるのだから。職場の同僚にも、取引先にも、生活保護を申請する人にも、同じだけ信頼に足ると考えてもいいだろう。

その方が、きっとうまくいく。

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