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僕たちには移動の自由があるのか、ないのか?

中国人は移動の自由がないらしい。日本人なら北海道から東京に引っ越そうが、沖縄から大阪に引っ越そうが、原理的には自由だ。役所で転入届を出そうとして「あなたは東京に住む資格はない」などと言われることはない。一方で、中国人は例えば農村から都市に移り住もうとしたら「あなたは上海に住む資格はない」と言われるらしい。そんな話を中国に詳しいオッサンから聞いた。ふーん、と思った。

オッサンは「なんで中国人は文句も言わんのやろか?」と不思議がっていたが僕はオッサンのその感想の方が不思議だった。僕たちは思いつくがままに北朝鮮やフランス、パキスタンに引っ越すことができないわけだが、そのことに不満を感じたことは一度もないのだから、中国人だって似たようなものではないだろうか。

特にあんなに広い国なら尚更だ。別に大阪から京都に行けないのなら文句を言いたくもなるかもしれないが、敦煌から上海に行けなくたって何ら支障はないだろう。もはや別の国というくらいの感覚になるはずだ。日本でさえ広いのに、中国はもっと広い。

自由とは基本的に程度の問題でしかない。完全な自由もなければ、完全な不自由もない。だから自分たちの置かれた環境でおおかた満足するのが普通である。自分たちより自由の程度が低い人を見れば「なんで文句言わんの?」となるわけだが、当人からすればそれが日常なのだ。

僕は車を所有していないわけだが、そのことを「車なかったらフラっとイオンモールにも行かれへんし、バーベキューにもいかれへんし、自由度下がるやん?」と人から疑問がられることがある。僕はいつも「スペースシャトルなかったらフラっと月に行かれへんし自由度下がるやん?って前澤友作に言われてるような気分やわ」的な言葉を返す。彼が月に行きたいとは思わないのと同じように、僕はイオンモールに行きたいとは思わない。ただ、それだけだ。

理想を言うなら、僕は国境など必要ないと思っている。国境という存在は、僕たちの世界における最大の矛盾だ。平和だ、自由だ、人権だ、機会の平等だなんだと言う大義名分と思いっきり矛盾するのが国境だ。それを正当化する十分なロジックを未だ僕は聞いたことがない。

かつて、都市国家は城壁で囲まれていたわけだが、あの城壁は外敵から市民を守るためにあるのではなく、市民を外に逃さないためにあったという説を聞いたことがある。古代の国家なんて、地図上にできた小さなシミみたいなもので、テクノロジーも大したことなく、そのくせ感染症と農作業に苦しめられる。外でどんぐりでも拾っていた方が楽しいわけだ。そういう楽しい世界を見せずに、延々と支配者のために小麦を作らせるためには、壁で囲わざるを得なかったのだろう。

※この本に書いてた。たしか…

現代の国境というのも、似たような存在なのだと思う。

いつか国境なんてものがなくなる日がくるのだろうか。「国家」が、「荘園」とか「幕府」と同じような響きを持つ単語になる日がくるのだろうか。そういう未来も見てみたいけど、少なくとも僕が生きている間には無理だろうなぁ。

やっぱり僕は革命に興味があるのではなくて、革命後の世界に興味がある。ある意味で1人だけ革命後を生きるようなことはできるのだけれど、地球という共同体が革命後にどんな風に生きるのかを見てみたい。

小説書くなら、そんな世界かな。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!